コデラノブログ 3

Blogmag の記事

ご愛読いただき、ありがとうございました。

2年間に渡ってここASCII.jpで続けてきたコデラノブログ3も、本日で終了である。

移転先をどうしようかいろいろ考えたのだが、やはりブログ形式で論を書ける場は必要だと思い、自前でコデラノブログ4を立ち上げた。盟友津田大介はTwitterに活路を見いだしたようだが、僕の場合はクドいと言われつつもやはりゆっくり考えて論をひねるのが好きなのだ。

3行でモノが言えるタイプの人もいて、世の中的にもそれを求めているという流れではあるのだけど。変な誤解を排除しつつ、複雑な話をわかるように人に話を伝えるためには、やはりそれなりの文字数を以て書くという方法も、なくならないのではないかと思っている。

もちろんTwitterのようなツールには、拡散力と瞬発力があり、うちの猫もつぶやいているぐらいだから、それはブログとはまた違う性質を持っているのであろう。それらの特徴をうまく捕まえながら、僕もTwitterでも発言して行きたいと思っている。

7月移行、ここがどうなるのかは、まだ聞いていない。このまま残しておくのか、それとも消えてしまうのか。編集部もいろいろ忙しいようだ。

これまでご愛読ありがとうございました。では、続きはコデラノブログ4で。またこれまで小寺信良を支えてくれたASCII.jpの皆さんに感謝します。

4号棟建設予定地

今月いっぱいで終了する本コデラノブログ3であるが、とりあえずの移転先としてコデラノブログ4を作っておいた。このままTwitterでもいいかとも思ったのだが、まとまったエントリーを上げる場所もあっていいかということで、ブログを続けることにした。新天地はライブドアブログである。

実は7年前、あるプロモーションのためにライブドアブログで1ヶ月ほどテストしたことがあったのだが、テスト終了後、中身を消してそのまま放置していた。いや、やめるならちゃんとアカウントも停止しておくべきだったのかもしれないが、当時ホリエモン帝国であったライブドアブログは、無料アカウントはメールアドレスだけで作れるが、ブログの削除は個人情報を丸ごと渡さないと削除できないという極悪非道厚顔無恥なシステムになっていたのである。もちろん、今はそんなことはない。

そういえばあのアカウントはどうなってるんだろうとログインしてみたら、まだ存在していた。空っぽのブログもまだそのままあったので、いったん全削除して新ブログとして立ち上げ直したというわけだ。

久しぶりに個人ブログに映ることになる。これまでは商用ということで自重していた事も、いろいろ書ける、かもしれない。

EtherPadはいまいちだった

以前、共同編集ができるWEBサービスとして紹介したことがあるEtherPad

先日MIAUの中川君と共同でテキストを書く必要があったので、2人で使ってみたのだけど、日本語を同時に入力しようとすると、文字の入力ポイントがテキストの先頭に吹っ飛ばされてしまうという現象が起こるようだ。

誰が入力した部分なのかがわかるという点でのメリットはあるが、同時入力が出来ないのであれば、Google Docsで十分である。日本語が通るという点ではワールドワイド対応と言えるのかもしれないが、もうちょっと成長を待ちたい、といったところか。

幸福確認機

今日はCanonの新しいビデオカメラの内覧があって出かけてきた。詳細は情報解禁前なので書けないが、僕が一般にCanonびいきと言われるのには、わけがある。いくらもらってるんだなどと邪推する人もいるが、お金をもらっているわけではない。

Canonはいつも、内覧会のあとに昼食会や夕食会などを開いてくれて、設計者、マーケティング担当者と膝つきあわせて本音で話しをさせてくれる席を設けてくれる。そこでいろいろ考えさせられるテーマをぶつけてきてくれるところが、他のカメラメーカーとスタンスが違うところなんである。いやこんなことは書いちゃ反則なのかもしれないが、オレはココロにダムがない人間なので、書いちゃう。

僕は個人的に、ビデオカメラの画質がいいとか悪いとかってのは、実に底の浅い議論だと思っている。そんなもの、時代が解決するのである。そうじゃないんだ。撮像機器として、10年スパンで考えたときに、どこに向かっていくのか。いやどこに向かっていくべきなのか。そういうことを、今日明日の製品レベルではなくて、話を聞いてくれて、話をしてくれる、そしてその話が通用する会社であるということを信じているのだ、と言える。

今日キヤノンから投げられたボールを僕なりに考えてみたときに、まあどんなボールを投げられたのかは秘密なのだけど、ビデオカメラってのは、自分の幸福確認機という本質があるんじゃないか、と思い至った。1970年代に、ビデオカメラでニュース取材をするENGが脚光を浴びたのは、何だったのか。

それは、他人の不幸をいかに生々しく映し出すか、ということだったのだと思う。そうしてテレビを通じて人の不幸を生々しく受け止めた一般大衆は、「オレ達はあの人達よりはマシだ」と確認することで、今あるささやかな幸福を支えに生きる希望を見いだしたのである。

そして今も、ニュースはその役割を果たし続けている。仕事がない、家がない、不細工だ。そういう人たちよりはマシだという比較対象を、生み出し続けている。家庭用ビデオカメラも、そういう報道用途としての形、すなわちテレビ局ニーズをダウングレードした格好で、この30年やってきた。

しかし、もうすでにその意味合いが変わって、次の30年に入りつつある。次のフェーズとは、今ある現実の幸せを、より拡大して見せてくれるためのカメラ、である。目の前の現実をそのまま映し出す事は終わり、目の前の現実を、目視以上に良く見せてくれるもの。それが次の30年で求められる物だ。

スチルカメラが未だに滅びないのはなぜか。それは、絵が止まるよね、というおもしろみだけで残っているわけがない。目の前の現実を、それ以上に拡大して、小さな幸せをより大きな幸せに拡大して見せてくれる技術、それが今だに残っている理由であると考える。

多くの人がビデオカメラを持つに至った現代、すでに撮影時にナマの現実に向き合っている者に対して、さらに現実を突きつける必要などないのだ。それよりも、カメラで撮ると現実がこんなに良くなるんだ、という幸せを見せてくれるものこそ、次の30年に求められる性能だ。

誰でも取れる、というのは、カメラが抱えていた大きなテーマであった。それは古いカメラをいじくってきて、いかに普通に撮ることをが難しかったのかを、自分なりに体感してきたつもりだ。

しかしそれがクリアされたあと、次のステップは、「予想外に良く撮れる」ことなのだろうと思う。それは画質云々ではなく、表現の領域である。絞りやシャッタースピードを変えれば、ある程度表現できることは、カメラの仕掛けを知っている人ならわかる。しかし、そうではない人に対して、そういうプリミティブな仕掛けをいかに簡単にアクセスさせるか、の領域に入ってきているのである。

アートワークを、一般人がやっちゃいけないのか。一般人はアーティスティックな表現がわからないのか。それは違うと思う。専業アーティストでなくても、アートワークをやる権利は、誰にでもある。そういう豊かな国に、日本はようやくなったのだ。

僕は、そういうことをやれるのがカメラメーカーの責任だと思っているのだけれど、実際はキヤノンよりもソニーのほうがそういうことに理解がある。ソニーは、売れる見込みがなくても、「出すべき」製品を出し続けている。それは、販社の意向が強すぎない会社のベストバランスだ。

キヤノンの課題は、マーケティングの意向のさらに先を読んで、未来を示唆する製品が投入できるか、ということだと思っている。

自分に合ったものが欲しい、というオレ様基準主義が通用したのは、自分大好きなゆとり世代がメインの消費者層だった時代だけである。今は、自分を変えて欲しいモノが欲しい。そういう時代に突入しつつあるのだと言える。

文字コードの問題を考える

日本で発売される携帯電話に汎用OSが乗ると言うことは、PC並みに文字コードの問題が発生すると言うことでもある。Unicodeに絵文字を入れるという動きもある中、日本の漢字はいったいどうなっちゃうの? という問題を勉強する機会として、MIAUで勉強会を開催することになった。

来週の金曜日である。興味のある方は、ぜひご参加いただきたい。参加申し込みは、メールだけでなく、今回からフォームでも申し込みできるようになった。小さいことからコツコツと。

第4回 MIAU勉強会「インターネット標準(RFC)から見た新常用漢字表の矛盾」

今はギターアンプなどいらないらしい

ベースと一緒に買ったのが、BOSSのTU-88というチューナー。なぜか買い物に行く前日に、Roland USから新製品情報としてメールが来ていた。

チューニングするときに使うものだが、機能充実で、ヘッドホンアンプが内蔵されている。つまりベースからこいつにぶっこんで、ヘッドホンを繋げばそれだけで練習できるんである。メトロノーム機能はまあ大したことはないが、外部入力もあるので、これにiPodとかを繋げば、音楽に合わせた練習もできる。

電池駆動なので、どこでも弾けるというのはすばらしい。ヘッドホンアウトから出力を取れば、適当なアクティブスピーカーで音出しも出来る。これが5,980円ぐらいなんだから、もう世の中どうなってんの? って感じである。

楽器関係、安いなぁ。

ナニゲにバンドブーム?

これまでテニス一辺倒だった上の娘が、突然軽音楽部に入ってバンドやると言い出した。たぶんアニメ「けいおん!」の影響は、関係ないと思う。娘は全然見てないし、高校生にはあまり流行ってないみたいである。

まあしかしそれは重要な問題ではない。だいたいバンドってのは、誰か熱烈にやりたい人が無関係な人間を巻き込んで結成するものなのである。

担当はベースになったという。僕自身は若い頃からずっとバンドをやってたので、ロック系の楽器は一通りできる。ただベースだけはどういうわけか、ステージでやったことがない。たぶん、いつもベースは上手い人が一緒に居たからだろう。

久しぶりに楽器をいじるならベースもいいな、ということで、僕と供用で使うからという名目で先週の日曜日に買いに行った。お茶の水である。

お茶の水はすでに楽器街としては下火という評判もあるが、僕にとっては27年前に東京に出てきたときの夢が埋まっている街だ。足繁く通った楽器店の多くが健在で、懐かしかった。

楽器や巡りをしていて思ったのは、高校生ぐらいの子が一人あるいは友達と楽器を見に来ているのが多かった事である。あそこは明大などが近くにあることから、昔は大学生ぐらいがメインの客層だったのだが、年齢がグッと下がってきている。

ギターやベースも、入門機はかなり安く、最低ラインは2万円ぐらいである。しかしベテランの店員さんと話したのだが、昔の2万円の楽器は本当にしょーもない出来だったが、今の2万円楽器はかなりレベルが上がって、入門だったらまあ2,3年は練習用として十分いけるレベルだそうである。

いくつか弾いてみたが、もちろん高いものに匹敵するわけではないものの、昔少年ジャンプかなんかの裏表紙に載っていたトムソンのストラトなんかより、全然マシなのであった。何で知ってるかというと、最初に買ったギターがそれだったからである。

今から楽器始める子は、幸せだよなぁ。

今の経済じゃない経済の話

人間40を過ぎると、だんだん一つの専門家ではなくなっていって、いろんなことに手を出したりするようになる。会社を立ち上げる、転職する、趣味を始めるなど、そういう転機もまた40を過ぎたあたりで考え始めるわけである。

さらに世の中には器用な人がいて、全然別のことをやらせてもそれなりに上手くやってのけてしまうタイプの人もいる。

斉藤賢爾先生は、以前慶應義塾大学 DMC時代にMIAUのシンポジウムに出ていただいたことがある。ネットワーク技術者・研究者という立場でダウンロード違法化の問題点について語っていただいたが、今回「不思議の国のNEO」という本を出版された。

ネットワークの仕組みをわかりやすく物語りとして解説しながらも、それがグルッと回って金本位主義の今の経済じゃない経済も可能なんじゃね? というシミュレーションになっている。一見子供向けに書かれているような体裁をしているが、実は大人が読む本である。

斉藤先生はこういうことを考えていたのかー、と思うと同時に、小学校5年生ぐらいでこの本に出会う子供は、将来資本主義社会を変えてしまうかもしれないなー、などと夢想する。

おもしろい。

My Music Style本

これまで何度か取り上げてきたオーディオのイベント「My Music Stye」が、本になった

中身を読んだのだけど、いやあよくもこれだけのオーディオセットを揃え、写真をきっちり撮り、解説を詰め込んだものである。とにかくその労力には、凄まじいものがある。

これまでのオーディオ評と違うのは、スペックを全く載せていないことである。周波数特性だとか、そういうことからの性能予測というのは、旧来のオーディオマニアのやり方だ。しかしその手法を取らず、音の分離や低音・高音のバランス、張りといった、「聴いた感じ」の評に徹している。

こういう評は、聞き手の主観に支配されるとして、旧来のオーディオ評ではなかなか受け入れられないものだが、これからオーディオに興味を持つ人からすれば、カタログスペックの読み方よりも、この機材はこういうタイプ、といったラベリングのほうが、受け入れやすいのだろう。要はコーディネータのお薦め、というわけである。

価格にはこだわらず、高いからいいという方針を最初から捨ててかかっている。リーズナブルなセットあり、iPod再生前提のシステムアップあり、ロック魂専用セットありと、現代のリスニングシーンを代表するチョイスが面白い。

次回のイベントは7月26日、場所は以前取材した場所と同じ、恵比寿である。

夏のイベントということで、また涼しげな浴衣姿のスタッフがお出迎えしてくれるのだろう。本で紹介されたオーディオセットが、実際に聴けるかもしれない。

オーディオは、静かに復権しつつある。

とりあえず撮っておけ

写真を撮ることは好きなのだが、街の雑感のようなものを撮るのが苦手だ。

元々自分で撮影を始めたのは、ビデオ編集用の合成素材をライブラリ的に撮っていたのが最初である。それからレビューとして撮影するようにもなったが、なにせメディアに載せる映像なので、プライバシーに関わる要素を極力排除し、アングルなども含め、Anonymous的に撮影することを常に念頭に念頭に置いている。

どうもそういうものばかり撮っていたから、身近な町並みや家並みといったものに対峙すると、どう撮っていいのかわからなくなってしまったようだ。あんまり正直に撮ると、なんだか不動産屋の物件写真みたいなことになって、自分でイヤになってしまう。

でも、撮っておけば良かったなという思いは、潜在的にはある。同じ町に10年も暮らしていると、建物や駅前の様子が変わったりする。商売が入れ替わったりすると、「あれ? 前は何屋さんだったっけ?」と思うのだが、どうしても思い出せない。そういう経験は、誰しもがあるものだろう。

たぶんそういうのは、撮るだけではなく、日にちや目的なども含めて、きっちり記録・分類しておかないと意味がないのだろう。ただ、今の風景に対してそこまでの価値を見いだす気力が、自分には持てないということなんである。

そういうことをエラくきっちりやっていると、貴重な記録映像となって後の世の人に貢献できるのである。最近知ったのだが、長崎大学付属図書館が公開した江戸、明治期の写真データベースは、眺めているだけで相当たのしい。

この時期は写真の意味がそもそも違っていたのだろうが、こういった試みを今の段階から、ネット上で自動化できるような取り組みをしておいて欲しいものだ。我々がジジイババアになったとき、それらの写真から若かりし頃の思い出の町並みが再現できるかもしれない。

アキバガード下と東急ハンズの間にある越えられない壁

秋葉原駅高架下にある秋葉原ラジオセンターは、僕が東京に出てきた27年前から今も、同じようなたたずまいで存在している。僕にとってはまさにあそこが秋葉原を体現しているようなもので、よく電機部品や線材、工具などを買いに行ったものである。道具箱に入っている工具のほとんどは、あの界隈で買ったものだ。今でも用がないのに、駅から中央通りに出るときに、あの小さな路地のような界隈を抜けて出ることがある。

変わらないことがいいこと、というのは、我々の勝手な妄想だろう。現状のままでは、あの界隈はあと10年保たないと思う。それは建物の老朽化という意味ではなく、存在意義という意味で、である。

例えば今、小さな電気部品をバラで買う必要のあるような人が、世の中にどれだけいるのか。昔あのような部品屋台が繁盛したのは、電気工作が盛んな時代であったり、ちょっとした機械ならば自分で作ってしまうような器用な人たちが居たからである。それはホビーとしても、仕事としても、日本の電気工業というのは、そういう形だった。

しかし今はどうだろう。ほとんどの測定、設計、シミュレーションはコンピュータ内でやるものである。簡単な機械の試作などは、中国の仕事だ。パーツ買ってきて自分で組んだ方が安い、というのは、電気機械もパソコンも、もはや過去のものである。

では今、あのパーツ街の意義は何かと言えば、すでにメーカーでもとっくに保守部品切れの機材の修理とか、あるいは改造とか、これまでにないものを作ってみるとか、そういう道なき道を歩む人たちのために存在している、というのが真実ではないかと思う。

そのことを、売り手のオジサン、今はもうオジイサンになってしまっているが、その人たちは気づいているのだろうか。いやどうやら、昔ながらの商売のままなのだろうし、だからこそあそこの場所に居続けるのであろう。

先日、カメラの露出計に使えそうな電圧メーターを物色にいったのだが、メーター専門店のオジイサンは、電圧とか仕様とか、そういうものがわからないんじゃ売れないという。こちらとしてはどうせ分解して中身だけ使うので、そこそこ低電圧で振れて、コイル部分の寸法さえ合えばなんだって構わなかったのだが。

メーターとしての外側の寸法はわかるが、その中身に関してはまったく関知していないようだ。つまりきちんと設計され定格が決まっていれば、それに見合う部品を出してくることは出来る、逆に言えば、部品はこんだけしかないんだから、これが合うように組めよ、ということなんである。

が、道なき道を歩む者に対しての知恵というかアドバイスというか、自分の知識を応用して客の問題を解決するというスキルを、彼らは持ち合わせていないのである。

まあそれは、これまでの需要の中ではそれで済んだのだろう。しかし今、そういう需要はないのであり、だからあの界隈は後継者もなくシャッターを下ろし始めるような状況になっているわけである。

無理を承知で僕がパーツ街に求めるのは、電機部品の東急ハンズ化である。ハンズは品揃えがいいというだけで存在しているわけではない。これまでにないようなもの、普通個人ではやらないようなこと、まず市販品では売ってないようなものを自分で作るにはどうしたらいいか、ということに関して、店員が高い専門知識を持ち、何が何でも問題を解決してみせる力量がすごい。実際わけもわからずハンズに行って、解決したことは多い。

商品としてみた場合、決して他店より安いわけではないのだが、困ったときになんとかしてくれる店員のスキルに金を払っているわけである。

秋葉原のオジサン、オジイサン、そして若いニイチャンも、潜在的にはスキルは高いはずだ。ただ、商売のスタンスが顧客ニーズと合致していない点は、否定できないだろう。

そういう客はアキバに来るな、と言われるかもしれないが、僕に言わせれば客に併せて変容するのがアキバのアキバたる所以である。僕はガード下を、このまま化石化したくないのだ。

しかしこんなことを、パーツ屋台のオジイサンに言っても、始まらないのだよなぁ。

紆余曲折アリ

早いもので、コデラノブログがここASCII.JPに居を移したのが、07年6月末のことであった。最初はITmediaで商業ブログとしてスタートし、そこが終了して個人ブログに、そしてASCII.JPで再び商業ブログとして約2年続けてきたわけだが、この6月いっぱいで終了、ということになった。

ビューはそれほど悪くなかったとは聞いているが、やはりこの大不況の中、ブログエントリーのビューをビジネスに結びつけるところが難しかったようである。

とりあえずはどこかのブログサービスに移転先を作って、「コデラノブログ4」を立ち上げようかとも思っているが、まあまだわからない。日々発信したいことを、このままブログというスタイルでやっていくべきなのか、それともTwitterをもうちょっと活性化すべきなのか。あと1ヶ月でゆっくり考えてみたい。

ちなみにTwitterのユーザー名は nob_kodera なので、フォローよろしく。あとうちの猫も sorakichi でつぶやいているので、そっちもよろしく。

場所は変わっても、人は変わらない。どこに移転しても、同じようなギロ目で世の中睨んでいきたいと思っている。

キヤノン D5mIIが動画機能強化

写真用レンズでハイビジョン動画が撮れるとしてプロも大注目の「EOS 5D Mark II」が、今度動画機能をファームウェアのアップデートで強化するようだ。

これまでは動画撮影時はISO感度や絞り、シャッタースピードなど、露出に関するものがフルオートでしか使えなかったのだが、それらをマニュアル指定できるようになるという。さすがに高い機種なので、すぐに後継機というわけではないようだ。

これでまた改めて、動画機能が気になっていた人たちが、一気になだれ込むかもしれない。中古のレンズや、マウントアダプタがインフルエンザ時のマスクみたいなことにならなきゃいいけど。

ヘッドホンお得? 情報

先週の金曜日、こないだ打ち合わせまで少し時間があったのでアキバを少しぶらついたのだが、千石電商で以前レビューしたこともある、Maxell「Vraison」のヘッドホンタイプが2,980円で10個程度売られていた。

圧縮音源の音質改善効果が見込めるユニット付きなのがウリで、3年前には3万円程度で売られていたものだが、あんまり売れなかったのだろうか。技術としては悪くないと思うのだが。

ヘッドホンはオーディオテクニカの「ATH-A500」と同じである。これ単体では7000円ぐらいの売価なので、ヘッドホン目当てだけでも結構安い。

土日を挟んでしまったのでもう売れてしまったかもしれないが、金曜日にウォッチする限りではあまり注目度も高くなかったようなので、時間がある人は探してみるといいだろう。

ケンコーコムらが訴訟

商業ニュースサイトでは結構取り上げられているものの、ネットの住人のリアクションが薄い話題。

薬事法改正によって、医薬品がネット販売できなくなるというのはご存じだろうか。一部離島などに限って2年間の経過措置が執られるようだが、MIAUのメンバーがこの問題に貼り付いている。

議論の成り行きを見ていると、ネット販売禁止派も、そもそも自分たちが何を守ろうとしてるのかわからなくなっちゃって、振り上げた拳の落としどころがないうちに改正薬事法の実施が迫って来ちゃってるという具合のようだ。

これに対して、ケンコーコムとウェルネットが行政訴訟を起こした。楽天の三木谷氏が訴訟の構えを見せていることは知っていたが、それに先行するところがあったのは驚きである。

ネットでの医薬品販売は、ネットユーザーにとって、メリットとデメリットが見えにくい問題だ。持病を持っていない人なら、特にそうだろう。ネットで薬が買えるより、コンビニで夜遅くまで薬が買えた方がメリットがあると考える人もいる。

だがそれも落とし穴があって、コンビニの店員に薬品の知識まで求めるのは無理があるし、そもそも24時間交代で勤務してくれる薬剤師がそんなに沢山いるとも思えない。結局薬品入手の利便性は、日中に薬を買いに出かけられる人のみが享受するだけという、現在と大して変わらない事になるかもしれない。

さらに対面販売が原則となると、買いにくい医薬品も出ることだろう。例えば妊娠検査薬や、インキンタムシの薬、育毛剤、シワ取りクリームなど、性と美醜に関わるものは、誰かに対面することなく買える方法もあっていい。

MIAUの正会員に聾唖のメンバーがいるのだが、彼らにとって、薬局などで対面で薬を買うことの方が難しいということを初めて知った。それよりもネットで薬の詳細な説明がゆっくり読めて、他の薬品との比較もできて、評判なども含め自分でしっかり確認してから買える方が、よっぽど安全なのである。

既存事業者はあくまでも対面販売にこだわることでネットを排除するのだが、それが健常者のことしか想定していないというのは、医療に関わる者としてあまりにもバカ過ぎないか?

もうちょっと時間をかけて、ちゃんと考えたほうがいいよ、この問題。

Symbian再び

Symbian OSが、ネットブックに載せることと計画しているようである。

Symbian OSと言えば、昨今は携帯電話OSとして知ってる人は知ってるという存在だが、かつてはPsionやNetBookといったPDAのOSとして知られていた。これがまたあらためてネットブック(話がややこしいが)に載るというのは、なかなか興味深い。

Psionユーザーだった筆者が期待するのは、OS純正のスケジューリングソフト「Agenda」をそのまま載せてくれないかなぁということである。あれは本当によくできたソフトで、海外に行ってタイムゾーンが変わっても、日本で入力した現地時間の約束時間がむちゃくちゃにならないという、実に優れた特性を持っていた。あれを移植するだけで十分売り物になるぐらいだと思っている。

あとはやっぱり、日本語が通るかどうかだなぁ。かつてPsionも日本語が通る以前から使っていた強者もいるのだけど、アポイントを入力する時には、人の名前や住所など、どうしても漢字がわからないと困るケースもある。

まあいったん出てしまえば、腕に覚えのある剛の者がわらわらと集まってなんとかしてしまうのだろう。筆者はそういう人たちのあとからくっついて便利に利用させていただくだけしかできない情けない立場だが、そういうお祭り騒ぎに参加できるのが、今から楽しみだ。

うまくリリースまで漕ぎ着けてくれればいいのだけど。

Windows 7の64bitはイカス

手持ちのVAIO Type TZ93NSに、Windows 7を入れてテスト運用している。最初は32bit版をいれたのだが、どうも再起動間際にブルースクリーンに落ちて、正常終了できないという問題があったので、64bit版を入れてみた。

いやもうさすがにWindowsと言えども、もうそろそろ64bitになっていい時代かもしれない。メモリーも安いし。

しばらく使ってみているが、再起動時の不調は特にないようである。難点と言えば、タッチパッドの専用ドライバがないので、パッドの端っこをこすってスクロールするという機能が使えないのが難点か。まあブラウザだけなら、Firefoxに適当なアドオンを入れてしのげるので、すごく困ったというわけでもない。

もう一つ不具合と言えるのかどうかわからないが、休止から復帰するときに、途中で止まってしまうことがある。以前なら面倒な事態だが、Windows 7の場合は電源長押しで強制電源OFFしても、次に電源を入れると、復帰シーケンスを続行するか、それともクリアして起動し直すかを選択することができる。このときシーケンス続行を選ぶと、うまく復帰できる。

さすが生え抜きのチームが作ったOSだけあって、エラーのカバーも抜け目ない。Vistaはまったく期待はずれだったが、Windows 7は正規版が出るのが楽しみだ。

受験生は要注目

金沢学院大学というところで、今年度の入試問題に僕のコラムが使われたそうである。

そう聞いて連想したのは、サマータイムの思い出を綴ったこのコラムだった。

これは公開時からわりと評判が良く、のちに自民党関連団体の会報誌にも掲載されたりした。まあサマータイム推進派へのサービスとして採用されたのかもしれないが、本文自体は正面から推進しているわけでもない。

だが実際に入試に使われたのは、「ブログに問われる書く技術、話す技術」というやつだった。約4年前に書いたものだが、これは公開時には評判が悪かった。特にブロガーからは、相当こてんぱんにやられたものである。

DSCF9193.JPG

しかし今読み直すと、日本語の特徴を公平な視点で捉えており、バランス的にも悪くない内容だと手前味噌ながら思っている。他にこの手の日本語の特性に興味があるのなら、平坦化イントネーションの事例を扱ったこれも面白いと思う。

難点を上げるならば、問題に使われた文章では、ITmediaに掲載のリード文まで掲載されているところだ。しかしこのリード部分は、担当編集者が本文の概要としてまとめたものなので、これごと問題文として掲載されると、そこが本文と重複してややこしくなる。もし次回どこかの大学で僕のコラムを採用することがあるならば、リード部分は取っていただいたほうが、受験生に混乱がないと思う。

さて実際に入試問題に使われてわかったのだが、当然入試実施前には連絡が来ない。あくまでも事後報告である。まあそれはそうだろう、試験前に題材が漏洩するのでは、洒落にならない。

著作権法では、第36条に「試験問題としての複製等」という項目があり、試験問題で使用する場合は複製や公衆送信ができることになっている。よって断わりなしに使っても構わないわけである。

ただ、試験問題というのは過去問題集などに再録される。それは営利目的ということで、使用料を著作権者に支払うことになっている。今回はその使用料として、日本文藝家協会の基準に従って2100円が支払われるということである。

実はこの使用料に関しても結構古くからいざこざがあり、その辺に関してもコラムを書いている。オレ守備範囲広いですな。用意周到ですな。これも4年前に書いたものだが、今でも内容はそれほど古くなっていないように思う。

今年はもう一つ、試験問題に使われた著作がある。東京大学大学院 情報学環の文化・人間情報学コースで、津田大介氏と共著の「Content's Future」の一文が、論文の問題として出題されたそうである。これは今年度ここに受かったジャーナリストの昼間たかし氏からお礼と共にメールが来たので、間違いないと思う。

まあここから出題されるというのはこういっちゃなんだがしごく当然で、この本はコンテンツ政策に関わる総務省・経産省・文化庁なんかで相当読まれているそうである。ちなみに昼間氏が最近刊行した「マンガ論争勃発2」では、僕がMIAU設立のいきさつなどをしゃべっているのが収録されている。

おそらくこれから、社会情報学が注目され、必然的にそういう情報学系の入試問題としてメディア論やコンテンツ論などが取り上げられることが多くなると思う。しかし、これだけ話題にはなっているが、まとまった論というのは案外少ない。

もし受験生でそっち方面を受験するのであれば、僕のITmediaのコラムを過去5年ぐらいをさかのぼって、メディア、コンテンツ関係のものを読んでおくといいかもしれない。いやまた問題として出題されるということではなく、この手の論に慣れておいた方がいいということである。

関連するものはたぶん量にして20本もないと思うので、まあ1〜2時間で読めるだろう。あとそれらを本にまとめたものもあるので、そっちもこそっと宣伝しちゃおうかな。

(と書いたのだが、今調べたらバックナンバーのリンクにはそこまで古いものは載っていないようだ。やっぱり本を買っていただくしか…うひひ。まいどあり。)

ビジネスメールの勘所

週刊誌の「PRESIDENT」が最新刊で、文章の書き方特集をやっているようである。

ビジネス文章の書き方のようなものは、以前から企画書や報告書などいろいろな指南書が出ているわけだが、そこにメールが入ってきているというのがここ数年の特徴である。今の新入社員なら、メールの使い方は慣れたものだろうが、上司や取引先など、これまでには居なかった関係の相手に対してどういうメール文章が望ましいのか、悩むところであろう。

日本語には丁寧語、尊敬語、謙譲語など、身分の上下関係を厳しく定義する言葉があり、これらの使い分けはなかなか難しい。しかしまあ、ビジネスの現場にメールが入り込んできてもう10年余りが経過するが、未だに変な日本語のメールが送られてきたりもするので、そんなに緊張することもない。

もちろんうまくできるに越したことはないのだが、多少おかしくても、相手に失礼のないように最大限の努力した跡が見られれば、大抵の人は笑って許してくれるものである。許されないのは、敬意が感じられないことだ。

特に新人諸君が気をつけなければならないのは、君たちはビジネス社会というピラミッド構造の底辺のしかも端っこんところの一歩間違えば砂にめり込んじゃってる石に相当する立場であり、君たちよりも下は存在しない、ということである。

子会社の人間や雇用者に対するメールでも、まずは君たちから敬意を払わなければ、相手からも敬意は払われない。どんなに実力主義とか成果主義とか言っても、まだ君たちは何の成果も上げてないのだから、すべての人に敬意を払っておくというのが、筋というものである。あ、厳しい受験戦争に勝ち残ったとか、難関を突破して大企業に就職したとかいうのは、成果じゃないから。

コツとしては、あんまりくどくど書かないことである。挨拶部分などをあまり凝ってしまうと、それだけ墓穴を掘る危険性が増大する。丁寧に書くのは、ファーストコンタクトの時だけでいい。そこは先輩のメールなどを参考にしながら(最初はccとかされてきただろ?)、自分なりのテンプレートを見つけていくことだ。

しかし肝心の話の中身までは、はしょってはいけない。そこは丁寧に、相手に対していつまでに、何をして欲しいのか、つまりあなたのリクエストが何なのかをはっきりすることである。

相手とのやりとりが恒常化すれば、あまり挨拶にこだわる必要はない。要件だけシンプルに書き、最後に相手を気遣う一言を添える。

相手がやってくれるかどうかわからない時は、「検討依頼」である。「お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくご検討のほどお願い申し上げます。」ぐらいはさくっとひねり出せるといい。相手が定形で必ずやってくれるはずの要件の場合は、「以上宜しくお願いいたします。」ぐらいでいいだろう。

返事のタイミングは、未読メールを一通り確認した時点で、自分で決められる案件には即返事をする。上司・先輩に確認が必要な場合は、その場で相談のメールを投げておく。相手を待たせる案件の場合は、いつまでに結果が出そうかの予想を返信しておく。

ビジネスメールの要は、なるべく早めにタスクを誰かに投げておいて、自分が相手の処理待ちになることである。決して自分の方に返事が必要な案件を溜め込まないことだ。溜め込むと、必ずどれかを忘れる。

そして決定事項は、すぐTodoやスケジュールに落とし込むことだ。仮に忘れていても、処理できる現実的な時間を見越して、リマインダ設定も忘れないこと。

EtherPadがいつの間にか利用可能に

複数人で同時にテキストが記述、編集できるEtherPadがいつの間にかサービス利用可能になっていた。

登場したのは結構前なんだけど、ずっとサービスが混み混みで、レジストはしたもののずっと空き待ちの状態だったのである。リニューアルしたEtherPadは、レジストなしで誰でも利用できるようになっている。

例えばGoogle Spreadsheetは複数人で同時に入力可能なんだけど、Google Documentはそうはなってない。なってないよね? 以前試したときにはできなかった。

MIAUのような活動をやっていると、結構リリース文とかパブコメとかのテキストを書く機会が多いんだけど、これまでは誰かが書いたやつをメール添付で回覧して直すみたいなやり方だった。だけどその場で時間があるみんなでぱーっと分担して書ければ速いし、同時にコンセンサスも取れる。

これは物理的に場所が離れていても作業ができるという利点はもちろんだが、その場にメンバーが揃っていても、使う価値はある。これまでそういう同時書きというツールがなかったからである。

ほかにも、ブレインストーミングなんかで使ってみても、面白いかもしれない。チャットだと場所が流れて行ってしまうが、これだとスクロールして戻って、前の話題の部分に書き足したりできる。WEBサービスなので、OSに依存しないのもいい。

単なるテキストツールではあるのだが、どうやって使うか、こっちの頭を試されるようなサービスである。

「携帯電話は自転車と同じ」論がしっくりこないわけ

「子供に自転車を買ってやるときに、親がその安全性を確認し、安全に乗れるよう指導するものだ。携帯も同じである。」という論調がある。ネットではあまり目立たないが、委員会やシンポジウムなどではよく聞く話である。

親がもっと関心を持つべきという意見としてはもっともだとは思うが、この比喩にはなにか違和感を感じていた。それがなんとなくわかったような気がするので、書いておく。

我々は、自転車事故の何を知っているのか、ということである。たとえば車と自転車の接触事故ということにフォーカスしてみよう。車の交通量の多い大通りと、車通りの少ない住宅地の路地を比較してみる。大通りの方が自転車にとって危険であると思われているが、本当にそういえるのだろうか。

1年間の接触事故発生件数でみれば、大通りのほうがたぶん多いだろう。だが、車の通過台数に対する事故発生の割合をみてみると、大通りは交通量が多い割には、事故発生の割合は下がるのではないか。たとえば10万台に1件といった具合に。これと同じ統計を路地でやってみると、実は500台に1件ぐらいになるのではないか、という話である。

つまり見方を変えるだけで、どっちが安全かということは比較できなくなってしまう。交通事故のようなものは比較的単純な事例であると我々は考えがちだが、実はもう一歩考察を深めるべき時期にさしかかっているのではないだろうか。

子供と携帯電話の問題は、まさに社会問題に対してもう一歩深く踏み出すための、いいテーマなのではないかという気がするのだ。つまり、親がしっかりしましょうとか、ケータイを取り上げましょうといった単純な話ではなく、社会デザインとして、トラブルが少なくなるような設計をしなければならないんですよね? これまでそういうことはやってこなかったんですけど、これを機会にそれをやっていきましょうよ、ということなんである。

だが子供と携帯電話の問題は、活動が大きくなるにしたがって、また大手メディアがこの問題を取り上げるようになって、手順をすっ飛ばして単純化しようとしているのがすごく危険というか、加速度的に馬鹿が集まってくるというか。

今までの議論をもう一回ちゃんと踏まえましょうってのを、再確認しながら進まなければならなくなっている気がする。

B-CASはどうなりたいんだよ問題

ちょっと古い話題だが、丁度渡米していてチェックしていなかったので。

デジコン委員会の51回目で、B-CASに変わる新ライセンス方式が検討されているようである。

この記事を見ていると、議論はそもそも無料放送にスクランブルは要るんでしたっけ? というところがスタート地点だったと思うのだが、どうも雲行きが怪しくなって、要はB-CASじゃなきゃいいんだろ的なところにすり替わってきているようだ。

実際に権利者も、不便になって市場が縮小するぐらいならスクランブルはいらん、単にテレビ番組をネットに上げないということをルール化すればいいんじゃないの? と言っているのだが、もはや技術WGが暴走気味の感じがする。

これ、技術者ならわかると思うのだが、どうもこういう新規格の立ち上げというのは、技術者自身その検討そのものがおもしろくなっちゃって、本来どうなればいいんでしたっけ的なところを置いていきがち、というところをものの見事に体現しちゃってる事象にしか見えない。

さらにはB-CASのミニカードまで策定しちゃって、まだB-CASをやる気なんだろうか。

なんかどんどんむちゃくちゃなことになって行っているように感じるのが、気のせいだったらいいのだけど。

超誰得

僕がアメリカ出張中のことで、妻からすごい話を聞いた。

以前、うちの電話番号が某大病院の電話番号と似てるという話を書いたが、その続編である。

一度間違いでかかってきて、正しい番号を教えたのだが、またかかってきた。「今インターネットで調べたら、やっぱり病院の電話番号はお宅の番号だ、どうしてくれる」ということらしい。

いやどうしてくれるってw。仮にネットでその番号が載っていたとしても、事実としてうちは病院じゃないし、「すいません、隠してましたがじつはうちは病院でした」という展開になるとでも思っているのだろうか。それよりも早く正しい番号にかけてみたほうが、病気で困っている身内の方のためだと思うのだが。

だいたいうちが大病院の番号を騙って、何の得があるというのだろうか。それで病院になりすますならまだ話はわかるが、違いますよ、と言っているわけである。

ちなみにネットで自分の家の電話番号を検索してみたが、ヒットは0件であった。どうやらご本人は、サイトの電話番号も読み間違えているらしい。

大変残念なその方は、申し訳ないが着信拒否番号に指定させていただいた。人間、思いこんじゃうと後には引けなくなるものなのだろうか。恐ろしいことである。

教え損サイクルからの脱却

いつの世にも、そしてどんなものにも初心者というのは存在して、その人たちをいかに扱うかは、情報社会にとって難しい問題である。特に教える側がエキスパートになればなるほど、初心者とのギャップが大きすぎて、話が噛み合わないことが往々にして起こりがちだ。

仮に丁寧に教えたとしても、相手にそれを理解する知識がない場合、最短で問題の解決に至らせるのは難しい。一番やっかいなのは、教えられる側が「もっと初心者にもわかるように説明してくれ」と開き直る場合である。

仮に「初心者」という層があったとしても、その知識レベルは一様ではない。何ならわかるのか、というところから徐々に掘り返していかなければならないため、ほぼマンツーマンでのやりとりが必要になる。

教える側にとっては、「その特定の初心者がどれぐらいまでの知識量を持っているのか」を知ることに、何の利益もない。従って、「教えるのは面倒」というサイクルに陥っていく。

それを解決する方法は、今のところ2つある。一つは「教えて」系のサイトである。これはポイントなど何らかの対価を支払うことで知識を提供する側にインセンティブを与える方法である。

もう一つは「半年ROMってろ」と突き放す方法で、これは本当に半年黙ってみてればわかるという意味もある。だがネット的な視点では、半年前ぐらいさかのぼってログを読めば、同じようなことが繰り返し何度も書かれているのに出会うという事でもあるだろう。

ネットは大量の情報と、大量のコミュニケーションを生み出したが、それがゆえに多くの人は、道なき道を自分で切り開いていくということに対しての解決策を失いつつあるようにも思う。つまり、自分でいろんな可能性の組み合わせを試してみて、どうなるかを調べていくという方法論である。

ネットのどこかに情報があるはず、誰か知っている人がいるはず、というのはそりゃそうなのだが、そこにリーチする前に、自分でやるだけやってみるということは、決して無駄にはならない。少なくともこの方法はダメだった、という知識が得られるし、なによりも問題点に対しての深い知見を得ることができる。

もし自力で問題が解決できた場合は、そのトライアルの課程も含めて、情報をネットに載せておくべきだ。それは自分のメモにもなるし、何より誰かの役に立つかもしれない。ネットの知見とは、元々そうやって成長してきたはずで、ひたすら情報をPullするための仕組みではなく、Pushするための仕組みであるべきだ。

同じ情報であっても、アプローチが違えば、書き方も変わってくる。その多様性が、多くのパターンを持つ初心者層を救済することになるわけである。

Windows 7 RC

VAIO TZのデスクトップアイコンが、米国取材中になんか真っ黒になってしまった。無線LANの繋がり具合も変で、昨日まで順調に繋がっていたかと思うと、翌朝には全部のアクセスポイントを見失ったりする。

なんかいろいろ面倒なので、Windows7のRCに入れ替えようかと思ってなにげにアクセスしたら、すでに日本語版も落とせるようになっていた。日本向けには7日からという話だったが、もう公開されているようだ。

23時頃に落としたところ、それほど混んでいる様子もなく落とすことができた。もっともこれから混むのかもしれないが。

とりあえず今日はイメージファイルからディスクだけ作成して、明日インストールすることにしよう。

「となり近所」という組織体系

今年は回覧板を回す班長になっているということもあって、自治会の総会なるものに出席してきた。出て初めてその規模がわかったのだが、自治会内に1800世帯もあり、来年で30周年だそうである。

地元のアバウトな寄り合い的なものを想像していたのだが、実に議会運営としてきっちりやっている。会長挨拶から議長任命に始まり、第1号議案から第5号議案まできっちりこなし、昨年度の収支などは全部読み上げ、賛成は拍手を持って決議とするなど、まさに議会運営のフォーマットどおりを80ぐらいのじいさまばあさま方が粛々とこなしており、あんたら現役時代はナニモンだったんだよ的な驚きがあった。

こういう議会運営フォーマットというのは、一回経験したぐらいでは自分が運営する側にはなかなかなれないとは思うが、進行手順などは知っていて損はない。30代のときは、そんなことなど縁がない人生だと思っていたが、人間40にもなると会社立ち上げたり学会に参加したりなんかの委員になったりするものである。そんなときに段取りを一通り知っておくと、面食らわなくて済む。

地元の人との付き合いも、マンション住まいでは所詮その建物内の上下左右だけのことだが、戸建てが多い住宅地に住むと、面的にものすごく広いエリアの人と交流を持つことになる。道ばたで近所の人が集まって情報交換するような昭和時代的なことも、未だ普通に行なわれていたりする。

地場産業があるわけでもないただの住宅地では地域振興もなにもないのだが、高齢化社会に向けて相互管理社会に移行せざるを得ないという事情が、その底辺にある。元気なうちは一人で生きているような気がするものだが、自分一人では立ちゆかなくなったときに、お互いでもたれ合って生きていかなければならないわけである。

そういうことを学ぶ上で、地域の自治会などに顔を出しておくというのは、いい経験になった。近所付き合いが面倒だという人は多いが、実際にやった結果ではなく、やりはじめるのが面倒ということなのだろう。

だがそのめんどくさい隣人になるかどうかというのもまた、自分自身に問われていることである。近所付き合いを排除する人には、周りの人もまた良くしてくれるはずもないという単純な図式なのだが、なかなか人はその事実に気づかない。

単に町内会費を払ってるだけで、町内で何をしてるのかも知らぬというのは、もったいない話である。意外に拾い物の経験が待っているかもしれないのだ。

新しくなったUbuntuとKDE

以前から予定されていたUbuntu 9.04が、4月24日にリリースされた。ほぼ同時に、xubuntu、kubuntuも公開された。

僕がLinuxをいじくっていた10年前は、どちらかといえばKDEのほうが完成されていて、Gnomeはどちらかといえば新進気鋭、でもちょっと不安定、といった感じだった。そのうちKDEはQTとのライセンスがこじれて開発が停滞し、そうこうしているうちにGnomeが追い越してしまったように記憶している。

kubuntu 9.04を入れてみて久しぶりにKDEを触ってみたのだが、やはりGUIのデザインセンスなどはgnomeよりもしっくりくる。ただubuntuと違ってkubuntuの日本語Remixバージョンは出ないので、日本語対応は十分ではない。日本語の表示ぐらいはできるのだが、そのままではSCIMもないので、日本語の入力もできない。そこでJapanese Teamのパッケージを追加した。

DropBoxもインストールしようとしたが、どうもうまくNautilusが起動できない。じゃあ逆をやるか、ということで、まずubuntuをインストールしたのち、KDEをインストールした。

いろいろ調べたところ、DropBoxはパッケージでインストールするよりも、リポジトリを設定してコマンドでインストールしたほうがいいらしい。

apt-get install nautilus-dropbox

でインストールしたのち、いったんログアウト、ログインしたのち、コマンドで

dropbox start -i

とやってDropBoxの本体をインストール。そして

dropbox start

でようやく起動することができた。KDE環境では、イーモバイルの接続がkpppを使って簡単にできるので、便利である。今のところうまく移行できたようだ。しばらくこのまま使って様子を見ることにしよう。

フランス人油断ならねぇ

NABのプレスルームで聞いた話。

プレスルームでフランス人記者が、動画レポートをパソコンで結構大きな音でプレビューしていた。最近は動画取材をするメディアも増えたので、プレスルームでは最近よくある光景である。

知り合いの日本人記者がどうせ日本語わからないだろうと、「うるせえなぁもう」とつぶやいたら、「ア、サーセン。」と普通に言ってボリュームを下げたそうである。

やべえ最近のフランス人日本語わかりやがるw。英語でさえわからないフリするのに、さすがヨーロッパ随一のヲタ大国w

DVDレコーダ修理ブームが来てる?

先日、娘用のDVDレコーダでDVDが焼けないというので見てみたら、DVDの再生もできなくなっていた。どうもDVDドライブが壊れているようである。

東芝RD-XS41は、それまでPanasonic製ドライブだったものを自社製ドライブに変えた時期にあたる。ネットで調べてみると、けっこうな量の載せ替え修理をしている人がいる。

情報が集まっているのは、2chやその派生Wikiは相変わらずだが、意外なことにカカクコムにも載せ替え情報が多い。たぶん機種別の掲示板がいつまでも残っていて、まさにピンポイントで話ができるからだろう。どうやらかつてパソコン自作でならした強者が、既製品修理というところに果敢に挑んでいるという流れになっているようだ。

ファームウェアを上げると、ドライブ交換もやりやすいということだが、これがむずかしい。まず本体をネットに繋いでアップデートを試みたが、ドライブが壊れていることがエラーになっているのか、アップデータへのアクセス段階で失敗する。

ファームをCD-Rに焼いてブートしようとしたが、そもそもDVDが読めないのにCD-Rが読めるはずもなく、全くの無反応。これは困った。

古いPCに付いていたドライブを付けてみたら、DVDは読めるのだが、書けない。またCD-Rは読めないので、これもブート失敗である。

どうしようかなぁ。古いファームでも動くドライブを探すか。CD-Rさえ読めればなぁ。

缶切りは缶の中

渡米する際に、預け荷物のトランクには鍵をかけられないことはもはやよく知られているところであろう。僕も鍵をかけず、そのかわりファスナーが開かないようにビニタイで止めていたわけだが、ご丁寧に空港職員が中をチェックしたあと、ビニタイでは心許ないと思ったのか、なんとタイラップで両開きファスナーの真ん中を止めやがった。

ご存じのようにタイラップはケーブルを止めたりするような時に使うものだが、犯罪者の一時拘束の時にも使ったりする。つまりはそれぐらい丈夫で、人が引っ張ったぐらいでは切れないわけである。

そんなもんで止めて、どうやって開けるんだよ。一応修理工具は持ってきているがトランクの中で、まさか鍵をかけないトランクが開けられなくなるとは思わなかった。

ホテルにチェックインして、なにか刃物のようなものはないか探したが、当然手荷物の中に刃物類などない。あったら飛行機に乗れてないわけで。

しばらく考えて、ホテルの部屋に備え付けのアイロンがあることを発見。熱でタイラップを溶かして、無事開くことができた。

しかしこういうの、困るよなぁ。ホテルのフロントに刃物を借りるというのは、米国じゃかなりリスキーな行為であるし、だいいちトランクが自分のものかを証明せよって話になったらかなり面倒である。

一応空港職員が合い鍵で開けられるTSA準拠の鍵も持っているが、以前友人がそれ付きのトランクだったのにわざわざトランクの鍵を破壊されて中身を確認されていたりしていたので、どうも100%信用できない。アメリカには時々、とてつもない馬鹿野郎が紛れていることがあることを、社会的に止める策がないようなのだ。

次回からなんらかの対策を考えねばなるまい。