2009年05月06日 12時25分
教え損サイクルからの脱却
いつの世にも、そしてどんなものにも初心者というのは存在して、その人たちをいかに扱うかは、情報社会にとって難しい問題である。特に教える側がエキスパートになればなるほど、初心者とのギャップが大きすぎて、話が噛み合わないことが往々にして起こりがちだ。
仮に丁寧に教えたとしても、相手にそれを理解する知識がない場合、最短で問題の解決に至らせるのは難しい。一番やっかいなのは、教えられる側が「もっと初心者にもわかるように説明してくれ」と開き直る場合である。
仮に「初心者」という層があったとしても、その知識レベルは一様ではない。何ならわかるのか、というところから徐々に掘り返していかなければならないため、ほぼマンツーマンでのやりとりが必要になる。
教える側にとっては、「その特定の初心者がどれぐらいまでの知識量を持っているのか」を知ることに、何の利益もない。従って、「教えるのは面倒」というサイクルに陥っていく。
それを解決する方法は、今のところ2つある。一つは「教えて」系のサイトである。これはポイントなど何らかの対価を支払うことで知識を提供する側にインセンティブを与える方法である。
もう一つは「半年ROMってろ」と突き放す方法で、これは本当に半年黙ってみてればわかるという意味もある。だがネット的な視点では、半年前ぐらいさかのぼってログを読めば、同じようなことが繰り返し何度も書かれているのに出会うという事でもあるだろう。
ネットは大量の情報と、大量のコミュニケーションを生み出したが、それがゆえに多くの人は、道なき道を自分で切り開いていくということに対しての解決策を失いつつあるようにも思う。つまり、自分でいろんな可能性の組み合わせを試してみて、どうなるかを調べていくという方法論である。
ネットのどこかに情報があるはず、誰か知っている人がいるはず、というのはそりゃそうなのだが、そこにリーチする前に、自分でやるだけやってみるということは、決して無駄にはならない。少なくともこの方法はダメだった、という知識が得られるし、なによりも問題点に対しての深い知見を得ることができる。
もし自力で問題が解決できた場合は、そのトライアルの課程も含めて、情報をネットに載せておくべきだ。それは自分のメモにもなるし、何より誰かの役に立つかもしれない。ネットの知見とは、元々そうやって成長してきたはずで、ひたすら情報をPullするための仕組みではなく、Pushするための仕組みであるべきだ。
同じ情報であっても、アプローチが違えば、書き方も変わってくる。その多様性が、多くのパターンを持つ初心者層を救済することになるわけである。
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