コデラノブログ 3

2009年03月 の記事

著作権法を抜本的に見直し?

複数のニュースで取り上げられているが、文化庁が著作権制度の抜本見直し図る「基本問題小委員会」など4つの小委員会・部会を新設するそうである。中心はフェアユースの導入であるというが、補償金のそもそも論を話し合うとする報道もあるようだ。

文化庁自身が、著作権法を抜本的に見直さないとダメだという結論に至ったという点に関しては、多少意外であったが、取り組みとしては素直に支持したい。ただ、腰を上げるのがいつも遅い。

というのも、すでにデジタル・コンテンツ利用促進協議会やコンテンツ学会のネット利用調整制度に関する民間審議会「提言」では、著作権法を抜本的に見直すのは無理というスタンスで、著作権法をバイパスするか、最小限のバッチを当てる程度で先へ進めるための特別法の準備に入っている。

ある意味、文化庁飛ばしである。文化庁主催の著作権法の議論ではいつまでも前に進めないことは、ここ数年でよくわかった。従って4月から立ち上がる基本問題小委員会などでは、もっと長いスパンの話をやることになるのだろう。

さて、果たしてどのようなメンバーが招集されるのであろうか。その顔ぶれで、ある程度文化庁がどういう方向に持っていきたいのかがわかることだろう。

寝相ロケット

僕も家内も子供の頃から寝相はいいほうで、朝起きたら布団からはみ出していたとかベッドから落ちてたというようなことは、記憶にない。しかしどういうわけかうちの子供は2人とも、ものすごく寝相が悪い。隔世遺伝なのかはたまた環境が悪いのか。

上の娘がそうなのだが、たいてい子供の寝相なんてものは、布団を蹴っていたり、横に転がったりするというのがパターンであろう。

予想外の展開を見せるのが、下の娘である。暑ければ横に転がるとかすればいいものを、上方向に向かって自分自身が飛び出していく。かといって上方向に無限の空間があるわけでもなく、うちの場合はすぐ上に和箪笥がある関係で、いつも夜中にごっつんとすごい音がする。

このままこれを繰り返しては馬鹿になると思って、横幅の長いクッションを毎回娘の上部にセットするのだが、どういうわけかそれをすり抜けて毎晩ごっつんしている。いったい夜中に何が起こっているのであろうか。

考えることを放棄する学校、放棄しない学校

高知県の私立高校では、ケータイ持ち込み禁止から一転、教育への導入に転換したそうである。

「生徒の大半が持っているのに、使い方を教えず禁止するのは教育の放棄」という意見には説得力がある。そもそも禁止するという方針は、手の打ちようがわからないという思考停止状態であることを、自ら暴露するものでしかないのだ。そこを自力で切り開いた決断は、評価されてしかるべきであろう。

しかし逆に言えば、このような方針転換ができるのは、私立ならではとも言える。国公立は、文科省や地元教育委員会の方針に唯々諾々と従うしかないという現状が重くのしかかる。

事態を反転させるきっかけは、私立校から広めていくというのがいいかもしれんなぁ。

湯たんぽさんパねえっす

三寒四温とは良く言ったもので、春めいた日よりで桜も咲くかと思ったら、ここ数日は妙に冷え込んでいる。暖房を付けるほどでもないが、足下から伝わってくる冷気に身震いする。

そんなときにちょっとイイ感じなのが、湯たんぽである。たぶん湯たんぽの実物を見たことがある人は、もう少なくなっているかもしれない。昔僕が子供の頃に見たのは、金属製のカメのような格好のものだった。今でもちゃんと売っている。

最近ドラッグストアなどで売られている湯たんぽは、ジェル状のものがビニールに入ったタイプのもので、「ゆたぽん」という。電子レンジで数分暖めると、7時間ほど暖かさが持続する。

実は昨年これを買ったのだが、今年使ってみると、暖かさが3時間程度しか持続しない。1年も経つと、特性が落ちてしまうのかもしれない。

そこで今年は、お湯を入れるタイプの、本物の湯たんぽを買ってみた。金属製ではなく、ポリ容器のようなタイプである。

お湯といのは、シンプルだが大した保温力である。ヤカンで10分ほど湧かせば、7時間ほどは暖かい。これに足を乗せているだけで、全身あったかだ。寝るときはあらかじめ布団に入れておく。

ぬるくなったら、また水をヤカンに戻して沸騰させる。今度は冷たい水ではないので、10分もかからずに沸騰する。使わなくなったお湯は、お風呂に入れることで、無駄なく利用できる。

熱エネルギーをやりとりするのだという概念で考えれば、かなり効率のいい暖房器具である。熱湯を使うので、今の目線で見れば安全性には多少問題があるのかもしれない。だがこういうシンプルで高効率なものは、長く残るべき知恵の一つである。

JISキーボードという喜劇

鳴り物入りで登場の世界最薄ノートPC、DELL「Adamo」の日本向けモデルは、やっぱりJISキーボード仕様なんだそうである。

なんでこうも日本仕様にこだわるのか不思議なのだが、学校の先生から興味深い話を聞いた。今小学校では、文科省の学習指導要領に基づいて、パソコンを取り入れた授業が展開されている。だいたい中学年から、早いところでは低学年から、キーボードを使っての入力を授業の一環として行なうことになる。

ところが、「ローマ字」を学習するのは小学校高学年なので、子供たちには日本語キーボードを使ったかな入力を教えざるを得ないんだそうである。そんなわけで、キーボードをJISにしないと学校案件が通らないので、日本で売られるPCはJISキーボードにしてしまうらしい。

しかし、だ。早くからIT教育は立派なことであるが、この子たちが大人になる頃は、ネット社会も成熟して国境がなくなることだろう。国際社会の一員ともなれば、英語でメールやメッセージのやりとりを行なう機会も、今よりもっと多くなる。

そうなったとき、その子供たちは英文をタイプするために、もう一度キーボードの英語配列を覚え直すことになるのだろうか。欧米に留学するときに、日本からキーボードだけ持って行くのだろうか。なんかそれって、すげえ無駄なハードルを作っているだけのような気がするのだが。

元々ローマ字入力の人は、英語キーボードかJISキーボードかは、記号の位置が多少違うぐらいで、慣れればそれですんでしまう。しかしかな入力しかできない人は、英語キーボードでの入力は難しい。

何をもってバイリンガルとするのか。僕は英語環境でも普通にやっていけるやり方のほうが、メリットがあるんじゃないかと思うんだけど。下の子もたぶん、JISキーボードの洗礼を受けることになると思うが、小学校のうちにローマ字入力を覚えさせようと思っている。

首の角度で音が変わる?

だれも言及していないのでもしかしたらオレだけかもしれないのだけど。

フォームラバー型のインナーイヤーを使ってると、首の角度で高域の出が変わるよね? よね?
下向いて本を読んでると、耳の穴の形が変わるのか、高域があまり聞こえなくなる。その代わり上を向くと、今度は高域がやけに聞こえるようになる。

たぶんフォームラバーは柔らかいので、耳の穴の変形に押されてサウンドホールが塞がれるんじゃないかと思うのだが。シリコンチップでは、こういう現象は起こらない。

SHUREとか持ってる人、ちょっと試してみて。

テレビ局のスト

先週の話だが、TBSの労働組合のストで、アナウンサーが出演しないという事態が起こったそうである。

テレビ局のような大きな組織になると、労働組合がしっかりできているので、ストも当然ある。僕もNHK時代に経験があるが、ストになるとその時間に約束のロケとかに現役のカメラマンが行かないので、その代わり放送技術部のデスクなど管理職が代わりにカメラを回してくる。

もちろんその人たちも元々カメラマンだったわけで、素人ではないのだが、年に1回急にカメラを回したって、いい絵が撮れるわけはない。足腰弱ってるから絵がぐらぐらするし、普通そこ足つける(三脚立てる)でしょというブツ撮りも手を抜いて手持ちで撮ってくるから、使える絵がほとんどないという悲惨な素材が翌日編集マンのところに上がってくるわけである。しかも相手はデスクなので、文句も言えない。

件の記事の中で、「かなり昔はありましたが、画面上影響が出るようなことはここのところはないですね」というNHK職員の談話が載っているが、違うよ全然違うよ! それ画面上影響が出ないようにオレたち編集マンが死ぬ思いして繋いだ結果だから!

人はどう“満足”するか

アスキー総合研究所の調査によれば、「コンパクトデジタルカメラ ユーザー満足度調査」においてもっとも満足度が高かったのは、リコーだそうである。07年にも別の調査でリコーが満足度一位となっていて、それをベースにリコーの歴史を振り返りつつ、カメラに求められるものは何かを考察した記事を書いた。

今回の調査の回答者を見れば、リコーのシェア自体はそれほど高くないことがわかる。これから見て取れるのは、「マス」なニーズを捨てて、一部のユーザーが熱烈に要求しているポイントに特化した、ユニークな製品群であることがわかる。カメラメーカーとしてはソニーやPanasonicよりも全然老舗なのだが、敢えて王道を行かないというスタイルが、所有感を高揚させるとも言えるだろう。

全メーカーが全部同じような路線で走っていたら、結局違いは値段しかなくなってしまって、市場が硬直化する。“みんな”が同じであれば、新しい“みんな”はもう要らないのである。世の中を活性化させるためには、一つの方向性にこだわった中央突破型の思想が必要だ。

王道路線メーカーこそ、そういうモノを作る余裕がありそうなものだが、なかなか売れてるときは冒険が難しいようである。人間儲かってるときは現状維持を望むものなので、逆に困ったときこそ冒険や革命のチャンスだ。

今、いろんなことで失意の中にいる人も多いかもしれないが、今いる場所がダメならば、新しいところに行って頑張った方がいい。そのとき、いかに過去の資産としての能力を新しいところに持ち込めるかが、勝敗の分かれ目である。

人間はゲームじゃないので、完全リセットなどはない。ゼロから出発しようと思うから大変なのであって、接ぎ木のように途中から別の枝を生やすと思えば、いくぶん気持ちも楽になるだろう。

AX300のHDDを交換

今番組を録画してもっとも柔軟に視聴しようと思ったら、一番便利なのがアナログ放送をパソコンで録画することだという、なーんかデジタル技術の使い方を誤った状況にある。しかしながら、パソコンで録画もあんまり安心できない。なにしろパソコンであるから、単に番組録画だけではなくいろいろできるようにと欲を出せば、スリープからの復帰に失敗したとかで週に1度ぐらいは録画に失敗する。

じゃあその機能だけ外だししたいな、と思ったら、アナログ放送対応のレコーダになるわけだが、録画した物をネットワーク経由でPCに転送できるものとなると、とたんに選択肢がなくなるわけである。だがそんな唯一無比の機能を持つのが、NECのAXシリーズだ。AX300は、比較的短命に終わったシリーズ中の、最上位モデルである。

しかしHDDは生もの、ネットの報告では結構HDDが飛んだという話も出ている。うちのはまだ大丈夫なのだが、300GBのIDEのHDDなんて、そのうちなくなってしまうかもしれない。まああと2年は元気に努めて貰わなければならないので、HDDを交換した。

AX300の中身は組み込み型Linuxなので、同じくLinuxを使って2つのHDDをまるっと複製すればできあがりである。たぶん2年前に作業をやったら全然ダメだったかもしれないが、最近はUbuntuをいじくって多少Linuxのリハビリができていたので、先駆者のサイトを見ながらなんとかなった。

マザーのBIOS設定をキープするためのボタン電池も、2度目の交換である。これほどまでに長い間愛されたレコーダというのも、そうないだろう。この使い勝手があと2年で永久に葬り去られるというのは、返す返すも残念だ。

やがてはこれも逸話として、語るようになるのだろうか。

米国リアルストアの相次ぐ撤退から考える

米国の不況はかなり深刻なようで、先週は全米で展開する家電量販店Circuit Cityが全店閉鎖するというニュースが出ていた。

こないだ1月にラスベガスのCircuit Cityにテレビの価格調査で行ったばかりだが、商品はそれなりにあるものの、日本人の目からすればあまりにも売っているものが凡庸で、店としての特徴がないように見えた。そしてなによりも、お客がほとんど居なかった。店員の姿もレジに2人、入り口に警備員が一人といった具合で、とてもこの広い店舗全域をカバーしているとは思えない数であったのを覚えている。

サンフランシスコでは、マーケット通りのApple Storeの向かい、ヴァージンメガストアズが閉店、撤退するそうである。これは数年前にどこかのブログで書いたように思うが、こちらも当時、とにかく客が居なかった。お昼時だったからという気もしたが、そこそこの観光地でお昼時だから人が居ないということもないだろう。むかいのApple Storeの賑わいとは対照的で、iPodは売れてもCDは売れないという、新旧の入れ替わりがまさにあの交差点で行なわれていたのだ。

今後リアル店舗は、特徴を出さないと生き残れない時代が来るだろう。日本にもいくつかの家電量販店がひしめき合っている。以前は価格面でカメラ系量販店が幅をきかせた時代もあったが、今は電器系量販店もほぼ同じレベルとなっており、品揃えも変わらない。

商品の見せ方や、お店作りといったテクニックを重視する人もあるかと思うが、それが効くのは店舗に足を運んだ人がその場で買うか帰るかというだけである。むしろお店の存在そのものに意味がないことには、通販でいいやというタイプの人に届かない。

ではリアル店舗の意味とはなにか。それはネット検索がもたらすピンポイント性に対して、リアルなモノ探しの課程で遭遇する雑多なブツや情報が、いかにコントラスト鮮やかに存在するかであろう。

その一つのヒントは、中古市場のあり方だ。筆者はよく中古カメラ屋を覗くのだが、そこにはざっくりとメーカー別といったカテゴライズがあるのみで、あとは値段別にシビアに場所が分かれている。

元々大して買わなくてもいいものを、自分が自由に使える懐具合相応のコーナーに貼り付いて、これはまだ使えそうかな、これは一体何に使うものだ? といった雑多な情報に触れること自体の楽しさと、現物が触れるという最大の情報がそこにある。

つまり、目的のものの周囲にどれだけ関連製品への誘導や情報があるかという、提案があっていいのだと思う。それは売らんかな的な関連周辺機器を並べるのではなく、競合の別ソリューションがあってもいいわけだ。例えば掃除機の隣に箒とチリトリがあって、これの価格差何倍だよということを再確認するのも楽しいし、畳だったら出がらしのお茶ッぱ撒いて掃除するとホコリまで綺麗に取れるんだよね的な知恵があってもいい。

リアル店舗は、その存在そのものがエンタテイメント化していかないと生き残れない、とまでは言い過ぎだろうか。

春眠

最近外出した後など特に、目が痛いのと眠いのとで、夕方から寝に入ってしまうことが増えている。やっぱり花粉キテルのかなぁ。

「春眠暁を覚えず」という言葉があるが、昔の人も実はそうとは知らず花粉症だったのではないかと邪推してみると、少し楽しい。ちなみにこの言葉は、漢詩の一部だそうである。

お金がないと面白い番組が作れないのかに対する答え

こないだのITmeidaのコラムに関して、そう思う人も少なくないようである。

ハードウェアやテクノロジーの進化というのは、定着して一般化すると大幅なコストダウンをもたらす。当然それによって設備投資や人件費の削減などが行なわれてきたのであるが、どうにもならないのが撮影である。

とにかく作り込むものがあったり、人を誘導する必要があるといった大がかりな撮影には、やはりお金と時間がかかる。何もかもをパソコンの合成とCGで作るわけにも行かないのだ。

そもそも本物が撮れないようなもの、未来とか宇宙船とかいったものはCGで作るしかないが、それは視聴者も本物を見たことがないので、どっこいどっこいである。しかし視聴者も本物を知っているものにおいては、やはり本物というかリアルな現物の迫力というのは、代用がきかない。制作費の圧迫は、テクノロジーの進化では削れないお金をも削らざるをえなくしているという現状がある。

映像作品を作ると言うことは、ある意味受け手に魔法をかけることに近い。なぜとかどうやってとかあり得ないとか、そう思って貰えるものを作るというのが、商売なわけである。

その魔法も、さめてしまうような底の浅さがあったら、誰も魔法にかからない。面白い、面白くないは、笑える、笑えないとは違うのである。人を笑わすだけならトークでもできるが、映像の作り手自身に話術があるわけではないから、どうしても自分がカメラの前に立つ以外の手段を使って、人を驚かす必要がある。

その仕掛けを作るのに、どうしてもお金がかかるのだ。それがある意味、テレビ放送に乗る意義というか、境目を形成していたのだろうと思う。

一人でコツコツ作ったモノで面白いものもあることは承知している。だがそれは、見るメディアが違うのだろうと思う。メディアごとにコンテンツは変わるべき、というのは、作り手側の基本的なスタンスだ。

だがこのご時世では、そうも言ってられない。それを別に作る金がないのである。ましてや通信の人達は、ただひたすらテレビコンテンツを格安で自分たちのインフラに載せたがっているだけ、というふうに見て取れる。通信インフラがお金を出してコンテンツを作る、あるいは制作費の一部を最初から負担するという発想はない。

逆に、テレビにネット発のコンテンツが頻繁に載るようになる日も、そう遠くないことだろう。しかしそうなったときに、テレビはもっとつまらなくなるのだと思う。

いつでもココロに余裕

一昨年引っ越ししたのを機に、うちの電話番号も変わったわけだが、NTTさんに丁度語呂が良い番号が空いてますよということでそれにしてもらった。ところがその番号、局番違いで末尾がどこかの大きな病院と一緒だったようだ。

その局番も、アナグラム的な似方をしている。例えばうちが345だとしたら、病院は354といった具合。こういう番号のかけ間違いをするというのは相当焦っているわけであるから、大抵間違い電話は深夜か早朝にかかってくる。

番号違いますよというと、チッと舌打ちして切るぐらいはまだましなほうで、こっちがコデラですって言ってるのに「昨日内科で診察を受けたxxですが保険の件でね」と人の話を聞かずにしゃべり出す人や、「病院じゃないってどういうことぉ!」と逆ギレされたりする。いやそういわれても違うものは違うのでー。そういう人は病院の正しい番号を伝えても、いや確かにそうかけてると言って絶対に自分の非を認めないから困ったものだ。

まるで切羽詰まった人の人間図鑑みたいなことになっちゃっている。こっちもいい加減怒りたくなるが、向こうはこっちの番号をきっちり知っているわけだから、むやみに怒らせて嫌がらせされてもつまらない。最近は妻も慣れたもので、事務的にてきぱきと間違いを指摘してさっさと切っているが、まあそういう対応が無難なのだろう。

焦っていても、非礼があったときは詫びの一つもスムーズに言えるような人間になりたいものである。

まだSafariには乗り切れない

数日間、Safari4βをテストして来た。FireFoxに比べて確かに表示は速いのだけど、細かいところで気になるところがある。

MacとWin版があるのは良いんだけど、機能拡張プラグイン「SafariStand」が付けるかどうかは結構大きな違いとなる。例えばブラウザを再起動したときに、以前のページを表示できる機能は個人的には必須なのだけど、これをSafariStandが提供してくれるわけだ。また、ページ内からリンクをたどったときに、別ウインドウではなく別タブに開くという機能も、SafariStandが実現する。ただ、リンクから開いたタブを閉じたときに、元のサイトに戻ってくれるとなお良かった。

これらの機能は、Macでは可能だが、Windowsでは使えないというのが痛い。フォント表示のなめらかさは、Windows版でも享受できるだけに、惜しいところだ。

あとは複数のマシンを使う身としては、複数のブラウザ間でのブックマークのオンライン連携・共有機能は欲しいところだ。

やっぱりこう、欲しい機能を自分でカスタマイズできる環境を持っているかどうかというのは、一端FireFoxを経験した人間にとっては気になるところである。正式版でどれぐらい機能が充実するのか、期待して待っていることにしよう。

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