コデラノブログ 3

最初の就職は失敗するもの

以前もこんな話をどこかで書いたような気がするが、まあいいや。毎年この時期には、ネット上で就職の話題が多い。すでにある程度は景気が後退しているのだが、今後はテレビ業界が大氷河期に突入することはほぼ確定なので、ますます厳しくなることだろう。

僕が就職なるものをしたのは、1984年。かれこれ25年も前だから、今の人にはあまり参考にはならないだろう。だが、昔はこんな感じだったというのを知るのも、話としてはおもしろいかもしれない。

大学生は3年生の夏あたりから就職活動をするのが今の相場だというが、25年前はまだそんな早い段階での就職活動というのはなかったように思う。だいたい4年生の夏ぐらいからみんな始めたのではなかったか。まあそのあたりは、よく知らない。

というのも僕は2年制の技術系専門学校卒なので、事情がだいぶ違う。専門学校というのは、普通は就職率が高い。というのも、今でいうブラック企業が大量に即戦力&使い捨て要員として採用していたからである。最初から有名どころに就職できるのは、優秀というよりも運がいいという部分が大きかった。

当時のことを調べてみると、ナウシカの公開、ドラゴンボール連載開始など、現代に開花する種が蒔かれた時代だったといえるかもしれない。数年後に迎えるバブル景気に向けて、経済は上り調子だった。従って、「兵隊」の大量雇用が必要な時代だったのである。

しかしそんな中でも、つまらぬところへの就職を嫌って、バイトで暮らすという者も現われたのが、この頃の特徴だった。僕はなにぶん仕送りに頼る身で、その年に父親が定年退職したこともあり、就職浪人するという発想は全然なかった。また、バイトで暮らすということも、自分には考えられない選択肢だった。

思えば、就職よりもバイトを選んだ級友らは、東京・大阪などの大都市出身者が多かったように思う。都会暮らしのコツというものが、自然に身についていたのだろう。その点で僕は、田舎者が一人で暮らすということに対して、自信が持てなかった。

当時はまだ、終身雇用は伝説ではなかった。しかし運良くか運悪くかわからないが、テレビ業界というのは転職に転職を重ねて、スキルアップしていく業界であるらしいことがしばらくしてわかることになる。同期入社した11人は、僕が辞める4年目には半分以下になっていた。

最初の会社での処遇は、認めてくれる人も幾人かはいたが、全体的にはまったく恵まれなかった。自分の能力を使いどころが、よくわからなかった。F1レーサーを目指したのに、実際の仕事はタクシー運転手、ぐらいのズレがあった。最後には本部から離れた小さな編集室に出向のようなことになり、楽ではあるが、つまらない仕事をあてがわれた。

最初の会社を辞めるとき、社長、専務とは喧嘩のようなことになってしまったが、直属の課長はよく理解してくれた。課長はまっすぃーんのように正確な編集をする人で、当時の僕はよそのことはあまり知らなかったが、おそらく日本でも3本の指に入るぐらいの技術の持ち主だと思っていた。

課長は常に孤高の存在で、あまり人と打ち解けて話などしないタイプの人だったが、自身もよその会社から移って来て、自分よりも年上のチーフ連の上に立っている人間だったからだろう。最後に挨拶したときも、辞めることに関しては、僕をうまく使えなかったことを詫びつつも、よそに行ってやり直すべきだと言ってくれた。

次の勤め先は、決めていなかった。とにかく疲れたので、しばらく実家に戻って療養することにしたのだが、帰って2週間ほどで、父親が脳梗塞で倒れることになる。

今にして思えば、よくそのタイミングで会社を辞めて帰っていたものだ。父親が入院している間、家業である酒とたばこの納税の仕方が誰もわからなかったので、僕が近所の酒屋さんに習いに行ったりした。今でも酒瓶の種類と銘柄で容量とアルコール度数がそらで言えるのは、このときの経験である。

そのとき僕は、24歳になっていた。

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