コデラノブログ 3

2008年10月 の記事

がんばれ九十九電機

秋葉原に複数の店舗を構える九十九電機が、民事再生手続きの申し立てを行なったようである。店舗はまだ通常通り営業を続けているとのことだが、今の景気状況とPCのありようを見れば、自力での再建はなかなか難しいだろう。

九十九電機といえば、大型店の中でもパーツ販売は小さなショップと同水準の価格を維持しており、買い物には便利だった。ケース専門店など、これまでパーツ屋として一緒くたに扱っていたものをセグメント分けしたというのは、新しい試みだった。

また各種専門店も見所があった。映像のプロ用ショップで安定した人気を誇っていたし、ロボット専門店を出店したときは「まだ早いだろう」とは思ったものの、アンテナとしては正しい方向であった。

目端が利くのが売りだった九十九電機も、現在のアニオタ文化への転身は難しかったようだ。やはりPC/エレクトロニクス分野とオタク/同人分野は相容れないものなのだろうか。楽しむ側の人間には境目はなくても、商売をする側には境目があるのかもしれない。

以前、末広町に移転した若松通商に行ってみたが、昔ほどの混雑ぶりはないものの、需要は確実にある部分で手堅く商売している印象を持った。得意分野のある店は、メインストリームを新しい分野に譲って、秋葉原のある一定レイヤーに収まっていくという構造なのかもしれない。

九十九電機も、店舗を整理するなどしてコンパクト化することになるだろう。しかしどこかで我々PC世代のよりどころとして、営業を続けて欲しいと思う。

三洋 ALBOを見て思う

本日発表された三洋のALBO。無線LANを搭載した7インチディスプレイである。ハードウェアとしてはいわゆるフォトフレームに近い。しかしALBOは、フォトフレームとは違うものであるという。

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そもそも日本において、フォトフレームはあまりブレイクの兆しがない。以前もiPodに写真表示機能がとき、おそらく写真機能はあまり使われないだろうと予測したことがある。その理由は、元々日本には写真を飾ったり、人に見せるという習慣がないからである。

もっとも最近では、ケータイの写真を見せ合うというケースも出てきているが、ケータイに溜まっているすべての写真を見せるわけではないだろう。日本人にとって写真とは、かなりプライベートな記念のものを残す傾向が強い。

ALBOは写真を表示する機能もあるが、メインはコミュニケータであると銘打っているように、メールとそれに添付された写真を表示するというのが、メイン機能である。例えば家族に対する連絡としてALBO宛にメールすると、それが表示されるわけである。

イメージとしては、冷蔵庫に張ったメモであるという。家庭内で使える掲示板というのが、主要な目的だ。

しかしそれならば、もう少し見せ方に工夫がいるだろう。最新のメールを表示するだけでなく、TODOとしてリスト表示ができたり、済んだものにチェックが付けられるといった機能も欲しい。また絵文字やデコメへの対応も課題だろう。そもそもこのようなスタンドに付けるより、もっと割り切って冷蔵庫に貼れるようにした方が良かったのではないか。

とまあいろいろ思うところはあるのだが、三洋がこのような製品を出してくること自体、会社として少し余裕が出てきたということだろう。

今後この手のミニディスプレイは、単に写真を表示するといった単純なものではなく、いろいろな切り口での製品が考えられる。特にコミュニケーションに注視するというのは、いいポイントだ。これまで一般家庭において、距離を隔てたコミュニケーションと言えば電話とFAXぐらいしかなかった時代から、大きな変革を迎えようとしている現れであるように思われる。

「場所」の概念の変化

時々世代によって、「場所」の概念が異なることで戸惑うことがある。ジジくさいことを言うようだが、最初にそれを感じたのはまだ筆者が22歳の時であった。

当時2歳年下の彼女と付き合っていたのだが、僕が考える遊びとあまりにも違っていて、戸惑ったことがある。僕の場合遊びと言えば、どこかに行ってスポーツしたり遊園地に行ったりと、自分で楽しみ自体を「PLAYする」ことを意味したのだが、彼女の言うところの遊びとは、ショーパブのようなところにいって、「お金を払って誰かに楽しませてもらうこと」を意味した。

どの場所で何をすべきというのは、誰かが規定するものではないが、そこに世代差を感じてしまう。

比較的卑近な例では、よく行くイトーヨーカドーのフードコートで、ノートを広げて一人で勉強する中学生の姿をよく見る。我々のころは、家で勉強できない事情があるのは、うるさかったり落ち着かなかったりするからで、そういうときは図書館に行ったものだ。いや今でも図書館で勉強する子もいるだろうが、あきらかにイトヨーのフードコードは、家庭よりもすさまじくうるさくて落ち着かないような気がする。いやむしろうるさくて落ち着かない場所でしか勉強ができないようなトレーニングがされてしまっているのだろうか。

今実はマクドナルドでちょっと一休みしているところでこれを書いているのだが、隣のテーブルでは大学生らしい男2人がトランプに興じている。僕等の世代では普通そういうものは、誰かの家で遊ぶものなのだが、お互いの家を尋ねるというのは、今時の若者はしないのだろうか。他にすることがありそうなものだが、わざわざこのセチュエーションで、よりによってトランプというのが、面白い。

最近よく利用するのが、ルノアールである。昔は、そんなに安いわけじゃないのに大しておいしくないコーヒーを出す、おっさんくさい喫茶店ぐらいのイメージだったのだが、最近はPCを充電しながらネットにつないで込み入った話とか、ルノアールの利用価値が急上昇している。

何かこう時々、いろんなお店とか場所で思いがけないことをしている人に出くわして、密かに驚くという例が増えている。その人たちにとっては当たり前なのだろうけど、そういう例を改めて集めてみると、何か見えてくるものがあるかもしれない。

テキスト入力にかけるコスト

11月に発売されるキングジムの「ポメラ」が注目を集めているようである。

出来るのはテキスト入力だけ、乾電池駆動、ネット接続機能なし。 考えうる限り必要最小限の機能に絞り込んだあたり、さすがに事務器メーカーの製品である。小型ながらフルサイズのキーボードを搭載し、ATOKを積んだたところがミソであろう。

効率的なメモ書きを目的としているそうだが、ターゲットはもちろん、ケータイの文字入力に馴染めないPCユーザーである。なぜならばそもそもメモ書き程度なら、ケータイで十分という層は相当にあるだろうからである。

価格的な事を言えば、3万円弱という値段に躊躇する人も相当あるだろう。あと2万円出せば、フル機能を積んだミニノートPCが買える。テキストを書くだけで拡張性もなしという単機能に、どれだけコストがかけられるかというのが、一種の踏み絵となっている。

おそらく物凄く限られた層にしか受け入れられないと思うが、事務器というのはもともとそういうものである。この価格設定も、量産効果がなくてギリギリという線であろう。

ただ、書くのが商売である我々モノカキの評価は、あまり当てにはならない。なにせ2万円以上の「キーボード」を買っても、元が取れる商売なのである。普通のビジネスマンが、モバイルノートじゃなくてこれだ、という使用シーンを描けてこそ、本当の評価が始まるモノだろう。

ダウンロード違法化はついに何かの引き金を引いた

すでに多くのメディアが報道しているように、昨日の文化庁 私的録音録画小委員会にて、ダウンロード違法化という結論が出されたようである。

そもそもこの委員会自体、かなり恣意的な生い立ちを持っている。05年の法制問題小委員会では、補償金は廃止を含めて検討という結論が出たにも関わらず、その結論をなきものにするために登場した。その懸念はすでに06年の段階で、委員となった津田大介も僕も懸念していたことである。

そもそも名前からする通り、本来ならば補償金の行く末を考える委員会であるのに、補償金に関することは何も決まらず、決めたことと言えばなんの実効性もないダウンロード違法化のみであるわけだから、結局この委員会は本来の機能を果たすことなく終わるわけである。

そのダウンロード違法化だが、そもそもMIAUが立ち上がったのは、この提案に反対するためであった。先日1年目のエントリーを書いたばかりだが、当初の目的が達成できなかったのは残念だ。

本丸とも言える補償金の拡大が決着しなかったのは、民意を汲んだわけではなく、メーカーが反発したからだ。この件に関してパブリックコメントという民意は、ことごとく無視されている。

ダウンロード違法化は、実行されれば状況を悪くするだろう。そもそもストリーミングがベースのサービスがお構いなしということで、反抗的なネットユーザーによってさらに違法アップロードが増えることが予想される。そうなればストリーミングも規制対象となり、罰則化も検討されて行くだろう。こういうことは、効果がないとわかると、必ず規制がエスカレートするものである。

その先には何があるか。権利者が狙うように、またみんなが一生懸命DVDやCDを買うようになるなどというのは、幻想だ。コンテンツは単純にメディア露出が減ることで、いいコンテンツと出会う機会損失が大きくなる。どんなにいい作品が市場に出ようとも、中身を知る機会がなければ買わない。中身を知らずに前評判だけで3000円4000円出すほど、今のネット慣れした若者はそれに価値を見出さないだろう。

この改正で萎縮するのは違法ダウンロードではなく、コンテンツセールスそのものである。ただでさえ今は、市販コンテンツよりもCGMのほうが面白いのではないかということに、多くの人が気づき始めている。「高いお金を出してプロ野球を見にいくより、自分たちで草野球やったほうが楽しい」ということである。何もプロが作ったコンテンツでなくても、アマチュアが無償で作るコンテンツで充分楽しめるという世の中は、もう一部では到来している。

日本特有の傾向として、コンテンツを自分自身で作ること自身も、コンテンツ化するだろう。自分で学ぶ楽しみ、作る楽しみは、何かにつけて器用な日本人なら、必ず見出せるものである。

この決定は今後の日本のプロコンテンツ産業にとって、いい結果はもたらさないだろう。これほどまでに人がプロパガンダで動かしにくくなった時代は、過去なかったのだ。

MIAUが1周年

今日、MIAUの1周年記念パーティが新宿で開かれる。今電車で向かっているところである。1年前、新宿の映画専門大学院大学のセミナールームで設立の記者会見を行ったのだ。木曜日だった。

正直、まだ1年ということに驚きを隠せない。この1年の間にどれだけのことに首を突っ込み、どれだけのことに巻き込まれてきたかを考えると、まさにドラマティックな1年であった。単なる一任意団体がこれほどまでに俎上に登り、学会、行政、各種団体から認知されたというのも、あまり例がないのではないかと思う。

MIAUが1年間、ほぼスタート時の勢いのままやってこられたのも、変に組織組織してない組織だったからだろう。コアメンバーとして動いてくれている人は、皆驚くほど優秀である。そして微妙に得意分野が被っていない。ここがポイントで、つまらないことで対立の構図がないのである。

もっともその代わり、その人のところでタスクが止まっても、誰も代わりになれないという弱点がある。バックアッププランがないのだ。だから割と我々の活動は、発表直前まで何も決まっていなかったりする。

具体的にどれがMIAUの成果かと言われると、もしかしたらあまりないのかもしれないが、少なくとも誰かが黙ってネットのことを決めちゃうようなことはなくなってきたのかなと思う。ネットユーザー、というよりも。もう社会インフラとして普通のものになりつつあるネットを使って、いかに実社会をいいものに変えていけるか、たぶんこれからはそういうフェーズに入っていくのだと思う。

Cat's Life Log

ネコの首に小さなカメラを付けていわゆるネコのLife Logを取る、CatCamというのがあるそうである。サイトの掲載された写真はどれも興味深いものばかりで、ネコの集会の謎が解き明かされるかもしれない。

このLifeLogというやり方は、03年ごろから米国DARPAで研究が開始されたが、発表と同時に猛烈な批判に会い、翌年プロジェクトが終息している。ただ民間レベルでは多く取り組みが行なわれており、日本でもネットと連動した製品がリリースされたことがある。

人がどこに行き、誰と会い、何をしたのか全部記録することは、社会学を始めとする研究者達にとっては貴重な資料となることだろう。だがそれは、被験者本人に許可を取ったからいいというものでもない。なにせ被験者自身は写らないのである。このプロジェクトの難しいところは、突き詰めていくとGoogleストリートビューの問題と同じであるところであろう。

映像撮影装置の進化はものすごいものがあるが、自動だったり無作為だったりすると、一見フェアなようでいて、実は人のプライバシーに深く踏み込むことになる。CatCamは人じゃないからOKという考え方もある一方で、人の住む街で使って大丈夫かという問題がある。

僕は映像のプロとして長らくこの手の問題に関わってきてるので、記事などで公開する映像には、無許可の人物の顔がわかるようなカットがないよう、慎重に撮影と編集を行なってきた。しかし映像機器とネットの発達で、まったく普通の人も、そろそろそういうこと直面する時代にさしかかってきている。

赤坂の思い出

今日、Niro1.comの新製品発表会があって、赤坂に出かけていった。

製品を見たかったというのもあったのだけど、一番の興味はその場所である。会場となった赤坂ガーデンシティというのは、約20年前に僕の職場であった、東北新社の本館があった場所だったのだ。


大きな地図で見る

確かに道だけは変わっていないけど、今はもうまわりのビルもほとんどが綺麗になってしまって、まるで別時限の空間である。思えばここから社員旅行のバスに乗ったなとか、この角にあった「奴(やっこ)」という食堂の味噌汁が異様にいつも沸騰してたとか、すぐ隣の喫茶店のバイトの子がかわいくてみんな必死にコーヒー注文したとか、いろんな思い出がよみがえった。

その昔ダイアナ妃が来日して青山通りをパレードしたとき、仕事中だったが2階のスタジオの窓からそれを眺めたこともあったっけ。

この右側の坂道は、薬研坂という。たしか標識には「やっけんざか」と書いてあったと思うが、薬研(やげん)とは昔、漢方薬などを煎じるために使われた、船状の小さな道具のことである。

狭くて上下の激しいその形が薬研に似ているところから、この名前になったのだと何かの本で読んだ覚えがある。この坂の途中に「やげん亭」というおいしいトンカツ屋があったのだけど、今はTBSの近くに越したようだ。

この坂はここから急な下りだが、その先に昔あった日本コロムビアのあたりですぐ上り坂になる。そっち側の坂は今でも、通称「コロムビア坂」と呼ぶ人も多い。今もまだコロムビアがそこにあると思っていたのだが、地図に載ってないので調べたところ、赤坂のコロムビアスタジオは05年に閉鎖、現在は六本木に移転したそうである。

薬研坂の名前は、明治の作家 岡本綺堂の捕物帖だったかにも出てくる。そんなことを知ったのは、この場所を離れて10数年が経ってからのことであった。

新聞記者の記事が、それでいいの?

毎日JPで、Googleストリートビューの問題が記事になっている。まあ一度リンクの記事を読んでいただいて、戻ってきていただきたい。

読みましたか。さてここの中段のちょっとしたあたりに出てくる「市民団体」というのは、MIAUの事である。タイトルが「ストリートビュー問題を考える」となっているが、日程も一致するし、これは我々の「Googleストリートビュー“問題”を考える」シンポジウムであることは間違いない。

我々としては、消費者団体と名乗ったことはあるが、市民団体とは名乗ったことはないので、勝手に市民団体扱いされたことはちょっと心外であるが、それはまあ我々の活動範囲がまだ小さいので、そう思われても仕方がないかもしれない。

以前主婦連にご挨拶に伺ったときにも、消費者団体というのは主婦連のように米の問題物価の問題全部扱うもので、皆さんのやっているのは市民団体では? と言われたことがある。まあそういう違いがあるというのならば市民団体と言われても仕方がないのだけど、我々も扱う問題が広汎になってくることで、ちゃんと消費者団体と言って貰える日が来るかもしれない。

こう見えても我々、ちゃんと関係団体には雁首揃えて挨拶に行ってるんですよ。なにもネット上だけで強がってるわけじゃないんですよ。

いやそれはそれとしてだ、この記事中に出てくる主婦連の河村さん、専修大の山田先生のコメントって、このシンポジウムの中の発言そのまんまなんだよね。我々としては公開シンポジウムとして行なったものだから、その発言を記事にするのは問題ないのだけど。でもさ、このお二人の記者さん、ぼくらのシンポジウムには来てないんだよね。

えーと今事務局で確認したところ、いらっしゃってません。我々受付で必ず名刺を頂戴しているのだけど、毎日からはこのお二人とは別の記者さんのみ、お名刺をいただいています。

ではこの発言をどうやって引っ張ってきたのか。考えられるのは、我々がシンポジウムの内容として公開しているYouTubeニコニコ動画の動画からだろう。これ編集したのって僕自身なので、該当のコメントもよく覚えている。休日を利用してしこしこと作業したものなので、せめてMIAUの名前出してくれるぐらいしてくれないと報われないよなー、とごくごく個人的に思う一方で。

新聞記者というのは足で歩いてコメントを拾って歩くものじゃないの?

僕もNHK時代に3年ぐらい報道局で編集をやってたけど、NHKの報道番組って記者だけでなくディレクターやアナウンサーも「記事」を作る。テレビだから「ニュースV」ということになるのだけど。

でもその中で、やはり記者が持ってきたネタというのは「オレたちはディレクターじゃねぇ、記者なんだ」というプライドとこだわりを持って、ものすごく時間をかけて追った丁寧な取材テープを持ってきたよ。それが「記者」というものだというのを、僕は目の前で見せて貰ったものなのだけど。

この記事にある落合洋司弁護士という方のコメントもどうだろうかと思って調べてみたら、これと同じ趣旨のものを雑誌の取材で語ったという、ご本人のブログにたどり着いた。8月19日のものである。

ということは、この記事中にある他人の発言って全部、ネットから拾ってきたということ? これらの発言部分ってこの記事中のキモとなる部分だよね。それで1本記事にしちゃうの? 新聞記者なのに?

比較するのはおかしいかもしれないけど、コラム書きの僕でも、合っても居ない人の拾ってきた発言を「記事の中心に据えて書く」なんてことはしないよ。ジャーナリストなら、自分で一次ソースに当たってコメント貰ってくるってのが、当たり前なんじゃないの?

読者諸氏には先走りしないで欲しいのだけど、「だから毎日は」という風にまとめないでいただきたい。僕の知っている毎日のS記者(ご本人の承諾を得ていないので匿名とさせていただく)は、MIAUの教科書プロジェクトを追いかけていただいているのだけど、僕個人、Googleストリートビューシンポ、MIAUの法人化記念パーティの都合3回、丁寧な取材をされて、1本記事を書かれている。

こういう、ちゃんと記者魂のある方もいれば、WEBのネタだからてきとーにネットで発言拾ってくればいんじゃね的に1本記事にしちゃう記者もいるということなのだな。それが社風と言ってしまえばそれまでなのだけど。

まあでも、毎日の記事は例の事件以降記名になったので、個人の責任が明確になっただけでも見通しが良くなったと言わないといけないのかな。

安心ネットづくり促進協議会

今ネットリテラシー教育関係がものすごいイキオイであちこちから立ち上がってきている。今日立ち上がった「『安心 ネットづくり』促進協議会」は、総務省が7月15日に発表した「『安心ネットづくり』促進プログラム」に端を発したもののようだ。いわば総務省お墨付きの、民間主導ポータルということになる。

記者発表会ということで、僕もジャーナリストとして取材に行ったわけだが、これだけそうそうたるメンバーを集めた割には、報道陣の数は今ひとつ。15分前に会場に着いたのだが、「あれ? もう終わっちゃった?」と焦るほど人が居なかった。発表会中でも、全部で50人ぐらいだったのではないかと思われる。会場自体は200人ぐらい入りそうなホールだったのに、もったいない限りだ。

実際の活動開始は来年4月からで、これから会員を集めて活動の枠組みなどを決めていくということである。しかし活動を開始してすぐに成果が上がるわけでもないわけだし、4月まであと半年ある。それまでに、MIAUも含めてすでに活動に着手しているところが頑張っていくしかないだろう。

MIAUの活動も、政治的なものならばおおっぴらに公表できるのだが、ダイレクトに相手が学校や生徒となると、なかなか具体的な活動の公表が難しい。リテラシー読本を発表したあと何もしていないように見えるかもしれないが、メディアに出せない部分で徐々に成果を上げつつある。まあそのうち、公表できるものも出てくるだろう。

今回の協議会の面々を見て思うことがある。たぶん今後、リテラシー教育を突き詰めていくと、ある業者にとっては不利益になる方向というのが出てくるはずである。我々のプロジェクトでも様々な試考を行なっているが、多くのサービスが今のままの業態では居られなくなるだろう。

そのときに彼らは、自社の利益と青少年育成とどちらを取るのだろうか。自社の利益を優先するのであれば、それが内部で抵抗勢力になって骨抜きになる。結局「やりました」というポーズで役所と政治家を黙らせ、何も変わらず問題が水面下に潜るだけ、ということにならないだろうか。もしくはあまりにも窮屈で、未知の可能性がほとんどないネットが出来上がるか。

これは相当に舵取りが難しい話で、今の段階でものすごく単純なゴールが描けていないと、迷走するだろうという気がする。

負の遺産

僕は子供の頃から物言いが生意気だったためか、同級生によくいじめられたくちである。いったんいじめられキャラが定着すると、例え言動を改めたとしても、あるいは学年が上がってクラスが変わったとしても、なかなか改善されないものだ。

だから僕は、はやく大人になりたかった。大人の世界では、あからさまに無視されたり、物を隠されたりといった子供っぽいいじめはないだろうと思ったのだ。実際に社会人になってからは、大人げないいじめに合うこともなくなった。大人とは、大人なのである。東京は人付き合いが薄いと言われるが、僕にとっては逆にそれぐらい干渉されない方が、暮らしやすかった。

今いじめられキャラが定着している子供たちにも、「大人になるまで頑張れ」と励ましてやりたいところだが、ネットの登場でそうも言ってられなくなった。いい年をした大人のはずなのに、群れを成して大人げない中傷をする者が後を絶たない。そういう殺伐としたネット社会を、次の子供たちに渡すことになるというのは、なんとも心苦しい限りである。

一体これからの子供たちは、いつになったらいじめ構造から抜け出せるのだろうか。何をどう頑張れば、ネット社会は良識と秩序が勝る大人の世界になるのだろうか。ネットを変えるのは君たちだ、とはとても言えない。だってネットをこんなに殺伐とした世界にしてしまったのは、モロに我々の世代が吐き出した澱だからだ。

ネットがあることでプラスになることも、実際には沢山あるはずだ。プラス面があるからこそ、みんなが群がるわけで。だがそれらは報道されないし、まとめられてもいない。

しかし実際にまとめたところ、プラス面がちょっとしかなかったら、それはそれで怖い。皆が皆、いいことがあるだろうと思っていたのが、幻想だったということになるからだ。

少なくとも人の足を引っ張ってダメにしてしまうことだけでも、やらないような雰囲気にできないかなぁ。それは制度ではなく、「デザイン」できると思うのだがなぁ。

夜歩く

今、予定していた帰り道から少し外れて、最寄り駅の一つ前で降り、ふらふらと歩いて帰る途中である。なんとなく一駅だけ電車を乗り換えるのが億劫になって、10分ほど遠くなるけど、夜風にあたりながら歩いている。

インターネットとケータイの利点を上げることが難しくなっている昨今、こうして夜道を歩きながらもそれなりに文章が書けて、しかもその場でアップロードして一つのコンテンツに出来るわけだから、我々コラムニストにとっては驚異的なメリットである。

これまでこのような状況で何か書こうと思ったら、文章の入力まではそれなりのツール、例えばPDAのようなものを使えば可能だったのだが、サーバにアクセスするというのが至難の技であった。だってただの道端だぜ。

どこでもオンラインで繋がるケータイの出現は、人々を孤独から解放し、思索へと繋がる道を示した。それはある意味、リアル社会の暗さ、不自由さからの解放である。

その一方でこの便利さは、まるで闇など最初から存在しないかのような錯覚をもたらす。さっきから虫の声はすれど、誰ひとりとしてすれ違わないが、闇が恐ろしいと感じないのは、ケータイの画面の明るさのせいばかりではないだろう。

誰かと繋がるかもしれないという安心感が、闇への恐怖を払拭する。おそらく子供達も、一縷の助けをケータイに求めるのだろう。そういう視点を持たないと、ケータイの本当の姿は、見えて来ない。

わかっていてもヘコむ

Yahooのベータ版「評判検索」で小寺信良を検索したら、半数以上がネガティブな結果に!

よく見たら、こないだのITmeidaの記事「オーディオ業界に3日で絶望した男が業界を救う話」の「絶望し」にめっちゃ引っかかってますけど!

※情報を機械的に収集・分類・表示しているため、内容の正確性や信頼性を保証するものではありません

わかっていてもめっちゃヘコむんですけど!

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