コデラノブログ 3

2008年07月 の記事

Linuxに必要なのは見た目か

最近注目しているサイト「ライフハッカー」に、「Linuxに今必要なのは美しい見栄えなのか?」というエントリーが上がっていて、昨日もUbuntuの話を書いたばかりだし、ちょっと考えさせられた。

筆者がLinuxをいじっていたのは98年前後だから、かれこれ10年ぶりに再びLinuxの門を叩いたことになる。当時はTurboLinuxが一世を風靡していて、多くの出版社が便乗書籍を出していたものだ。かく言う僕も、生まれて初めて単独で書いた本というのが、「使える! 遊べる! TurboLinux」という本だった。

思えばこれも色々繋がっていて、このときDTPしてくれた友人が、今度MIAUの教科書のDTPを引き受けてくれることになっている。まあこれは余談。

Ubuntuというディストリビューションは、ある資産家が大量に資本投下して、サポート体制を整えている。元々はDebian系だそうだ。いや、詳しくはまだあんまり調べてないのだけど。

昔のコミュニティに比べれば、Ubuntuの初心者サポートというのは、良くやっていると思う。常に初心者は製造され続けているのだから、これをサポートしなければ広がるものも広がらない。10年前のディストリビューションにもそういうことを言う人も居たが、実際には「manって知ってますか?」みたいな答えしか返ってこなかったものである。

さて、LinuxにMacOSのような見栄えが必要かと言えば、うーんまあ今ぐらい頑張ってればいんじゃない? と思う。実際に使うのはアプリケーションだったりオンライン上のサービスだったりするわけだから、デスクトップやファイルのアイコンなどは、既存OSのいいとこ取りをして使い勝手が良ければ、それで十分だろう。

それよりも、ちょっと使い勝手を変えたり、ツールを入れたりするときに、やっぱり10年経ってもsudoしてコマンド打ち込んだり、エディタで設定ファイル開いて書き直すみたいなことになっている。多くの人を取り込もうと思うのならば、この辺をGUIで何とかした方がいい。

GUIによる設定変更、つまりWindowsのコントロールパネルで設定できるような方法は、とりあえず何かしたかったら、そこからそれらしいものを探せばいいし、設定もウインドウの説明をよく読んで試してみれば、とりあえずなんとかなる。そのあたりの「探していけばなんとかなる」ところが大事なんじゃないかな。

一方コマンドも優れている面もあって、ちょっと便利なコマンドを知ってれば全部自動でやってくれたりもするし、教えたりする場合も「とりあえずこれ打ち込んでみろ」と教えられる点で、サポートは便利だ。なくすには惜しいのだけど、自力で解決が難しい点で、この方法は敷居が高いのだと思う。

OSの動き全体をコーディネートする人がいて、その人のポリシーを実現しようとするような集団が後ろについているような状態、つまり会社内の命令系統のような形でチームが固定化されないと、なかなかすべてをGUIでデザインするのは難しい。

そのあたりが、多くの推進力を有志のプログラマ集団に依存しているGNU/Linuxというものが構造的に抱え続けている問題だと思う。

EeePCとUbuntu

EeePC901を買って、Ubuntuを入れて試験的に使ってみている。元々はWindowsXPが入っていたのだが、まあ使い慣れてはいるものの、あまりおもしろみがなかったので、最近話題のUbuntuはどんなんだろうと思ったわけだ。

7月頭ぐらいまでは、一応OSとしては入るものの、LAN環境が全然ダメだった。特に無線LANがドライバ周りが難しくて、なかなか繋がらなかった。しかし「ライブCDの部屋」の管理人さんらが頑張ってくれて、EeePC901向けのディストリビューションができた。今から挑む人は、単にインストールするだけで無線LANまで使えるはずである。

バッテリの省電力機能がWindowsほどは上手くないので、動作時間はやや短くなるが、まめにアップデートするOSはなかなか面白い。E-Mobileの接続がそのままでは上手くいかなかったのだが、Gnome-PPPで繋ぐことができた。

メモリは1GBだが、ネットとテキストをいじるぐらいなら、十分使えている。動画ファイルもまあまあ見られるようだ。朝起きて一通りネットをチェックしたり、録画したテレビ番組を消化したり、メモ取りの多い取材に持っていったりと、色々使える。特にメモは、単にテキストだけでなく、時にはマインドマップの方がいいときもあるし、そういう柔軟さはケータイにはない点だ。

最近はLinux用のATOKもあるようだし、本格的なテキスト入力にも耐えるだろう。ただ、そこまでコストをかけるかどうかは、判断が分かれるところである。

モバHO! ついに撤退

東芝主導の衛星放送モバHO!が、ついに来年3月で撤退するそうである。

モバHO!に関しては、以前レビューしたことがある。そのときの感想を言わせて貰えば、コンテンツはみな借り物、有料放送なのにCMD有り、しかも料金も端末も安くない。米国の衛星モバイル放送事業と比較したら、これで普及するわけがないと感じていた。

当時の記事によれば、「パック料金は、プレミアムチャンネルを除く全放送が視聴できるコースが月額2,080円、映像チャンネルのみが1,380円、音声チャンネルのみが1,380円、データ放送のみが300円。そのほかに基本料が月に400円かかるほか、初回時には加入料として2,500円が必要となる。」とある。

撤退の記事では、料金が月額980円となっており、ずいぶん値下げしたようだが、それでも追いつかなかったようだ。

先ほどもちょっと述べたが、モバHO!のモデルは、米国の衛星ラジオ放送である。元々車用のサテライト放送がメインなので、映像の配信などは余計だったのだ。昔の有線のように、音楽専門+音声情報に徹底的に特化すべきであった。

衛星事業は、失敗するとツケが大きい。昔は有力な映像制作会社が、「ニューメディア」のかけ声に乗せられて衛星事業で失敗し、倒産するなどの事件もあった。まあ東芝が今日明日倒産することはないだろうが、HD DVDの撤退の影響もあるのか、不採算部門の整理が必要になったということかもしれない。

MIAUアンケートとフィンランド事情

昨日のICPFシンポジウムでのできごとを池田先生がブログに書かれていて、案の定ホットエントリー入りしている。僕の発言も引用されているが、もう少し詳しく情報を書いてみる。

一つ誤解があるのだが、"「2011年にアナログ放送が止まったらどうするか」という質問に対して、ほとんどの人が「テレビは捨てる」と答えたという"という部分は、MIAUのアンケートからの結果ではない。これは、MIAUでアンケートしたら、ダビング10に関して意味まで含めて理解している人が7割近くも出ているが、一般市民レベルまで落としたらダビング10の言葉の意味すら知らない人も相当あるだろう、という話をまずした。
その後で、アンケートとは別にネット一般の意見として、アナログが停波したらテレビを見なくなるという意見も多いという話をした。
その流れで、実際にアナログが停波したフィンランドでは、まずチューナーが別になったことで不便になったため、テレビを見なくなった老人層、そしてゲームやDVDが見られればいいという若者層が、国営放送の受信契約を解約したため、経営状態が悪化したという話をした。

この3つの話を1回の発言機会に全部喋ったので、混乱があったのだと思う。これは僕の話し方が悪かった。いやもう少し話が細切れでディスカッションするのかと思っていたら、一人一人がかなり長く喋るような進行だったので、どうしてもいろんな話を一度にしなければならなくなってしまったのである。

フィンランドでは、アナログ停波のときに、生活保護世帯には無償でチューナーを配るべきという国会答弁はあったようだが、ネットではそんなの貰ってないという話もあり、実際には配布はされなかったのではないか、ということであった。

一方米国では、生活保護に限らず全世帯に対して40ドルのディスカウントクーポンを配布した。金持ちも貧乏人にも等しく配るあたりが、アメリカ的である。

日本でも、生活保護世帯に無償で配るべきという意見は出ているが、このシンポジウムで僕が問題提起したのは、受信に関わるインフラコストである。

以前自前で地デジアンテナを立てた話をここでも書いたと思うが、UHFアンテナの設置にはだいたい3万5千円から4万円かかる。しかも1回立てたら終わりというわけではない。2012年には新東京タワーから電波発信が始まるので、今度はそっちに向けてアンテナを向け直さなければならない。普通の人はアンテナのRFを測定しながら角度設定するなどということはできないから、また業者を頼むことになる。人一人屋根に上げると、やっぱりそこでも2万円前後の費用がかかるだろう。

では別の方法はどうか。例えばケーブルテレビは現在アナログ放送は無料で再送信しているところが多いが、デジタル放送をそのまま伝送してくれるようになるだろうか。これをビジネスチャンスと見て、使用料がかかるようならば、月額2000円から4000円の費用が発生する。

ではフレッツ光はどうか。これもマンションタイプで2500円、一戸建てでは5000円の使用料がかかる。

確かにテレビやチューナーが安ければ、多少は負担は軽くなるが、逆に5000円チューナーしか買えない、あるいは買わない層が、これだけのコストを負担してまで放送を見るのはキツいのではないか。もちろんそれ以外にもNHKの受信料はかかるわけである。

5000円チューナーの実現性とともに、この受信コストの問題も議論に加えていただきたいというのが、昨日の発言の意図であった。

ホワイトスペースという考え方

今日のICPFのシンポジウムでは、元FCCのKevin Werbach氏の基調講演で初めて知った概念があった。それは「ホワイトスペース」という考え方である。これは電波の割り当てを、おおざっぱにここからここまでは放送ね、こっからここまでは通信ね、2.4Ghz付近はみんな使えばいいじゃん、という考え方ではなく、さらに効率的な電波利用を促進しようとするものである。

たとえばある地域の放送では、1、3、5チャンネルを使っている。なぜこんなに間を開けるかというと、隣接した地域が2、4、6チャンネルを使うという具合に、櫛形にかみ合うような格好で利用することで、干渉や混信を防ぐためである。

しかし、隣接電波の干渉を受けないような、放送拠点に近い位置では、このように飛び飛びでチャンネルを使ったその間は、なんにもない空白である。この空きスペースを「ホワイトスペース」と呼ぶのだそうである。

さらに近年の無線機器は、GPSを使って電波塔の位置を把握したり、ビーコン波を受信したりすることで、どの周波数帯が使われ、どの周波数帯が空いているかを把握できる能力がある。ホワイトスペースは、十分ワイヤレスデバイスで利用することが可能であるという。

考えてみれば確かにそこの隙間は、高出力で利用すると困るかもしれないが、限られた地域だけの低出力であれば、隣接地域と干渉することなく、利用可能なように思える。

たとえばスターバックスでは、店内でかかっている音楽のダウンロード配信などを始めているが、このようなごく限られた規模の高速ネットワーク利用は、ますます盛んになることだろう。またこれも昨今広がりつつある無線型監視カメラも、ほかに使える周波数帯がないので、11bと同じ2.4GHz帯をものすごい勢いで消費しつつある。もはや2.4GHzだけでは、十分なワイヤレス通信が立ちゆかなくなってくるのは、もう目に見えている。

そういうところにこのホワイトスペースを利用できたら、ずいぶんと電波利用効率が良くなる。この帯域を通信系サービス事業者に貸し出せば、これは放送局にとって新しいビジネスになるはずだ。しかも放送波に使っている周波数帯域は、低出力でも足が長い、いわゆる電波の中のオイシイ部分であるので、利用価値が高い。

だが肝心の放送局側には、そういうことがわからない。この電波はオレのものだから、誰にも使わせないといった態度でこのプランに臨んでいる。

だがホワイトスペースを放送局が自分で利用しようとしたって、どうせろくでもないアイデアしか出てこないだろう。なにせかつてライブドアが無線LANや電話回線網と放送を結ぶプランをぶち上げたときに、「記者がケータイで原稿を送れるから便利」とか発言するぐらい、通信に対してズレまくってる業界である。もう帯域を死蔵することが決まったようなものだ。ここをなんとかこじ開けなければならないだろう。

しかし米国の電波利用の話を聞くと、もうテレビの話ではなくて無線通信トータルでこれからどうしようか、というフェーズになっていてうらやましい。日本も早くそんな夢のある話をしたいのだが、それまでに片付けなければならない宿題が多すぎてうんざりする。

2011年 地上デジタル移行は完了するのか

釣りっぽいタイトルはオレのせいじゃない。今度の金曜日に開かれるICPF-情報通信政策フォーラムのタイトルなのである。そこのパネルディスカッションに参加することになっている。

普段コラムでは、アナログ停波反対だったりと、デジタル放送への全面移行へ疑問を呈しているわけだが、実際どういう問題があるの、ということを識者と共に検討するということである。元々筆者がアナログ停波反対なのは、別にアナログ電波が好きなわけではなく、アナログでできていたことができないデジタル放送に問題があると考えているからである。

国全体が動き、全国民になんらかの負担を強いるわけだから、メリットは多い方がいい。単に電波利権だけではない、有意義な議論にしたいと思っている。

ピカチュリン

産経ニュースによれば、目で受けた光の刺激を、電気信号で脳に伝える際に重要な働きをするタンパク質を「ピカチュリン」と命名したそうである。

本文では「電気を操るネズミに似た人気アニメキャラクターにちなみ」と書いてあるだけで、これではなんのことかわからない。これは97年に起こった「ポケモン事件」にちなんでいると考えるべきだろう。

ポケモン事件とは赤と青の激しい点滅のシーンを見て多くの子供たちが病院に担ぎ込まれた事件だ。当時社会問題ともなったので、覚えている人も多いだろう。しかし放送業界では、一般社会以上に大問題になった。

とにかく激しい点滅がダメということで、多くの番組オープニングやCMが作り直しになった。当時筆者はフリーでCMの合成を行なう仕事をしていたが、筆者が少し関わって記憶しているのは、SONYの企業ロゴである。様々な色と図形が激しくフラッシュしながらSONYロゴを形作るというCM用ロゴだったが、これはマズいと言うことで残像処理やコマ抜きを行なって作り直しとなった。

激しい光の点滅を行なう映像は、それ以降規制されて放送できなくなった。これを俗に「ポケモンチェック」と呼んでいる。またそれ以降アニメの序盤に「部屋を明くるして離れて見ましょう」という趣旨のテロップを入れることが義務化された。原因はわからないが、暗い場所で近距離で光の点滅を見ると、脳に影響を与えるという臨床結果だけがわかったからである。

約10年かかって、ようやく原因らしいものが突き止められるのかもしれない。もちろんタンパク質がわかったというだけでは、解決にはならないのかもしれないが。

オンラインで取材をこなす

取材のメモを取るためにPCを持ち運んでいるのは普通の話だったが、取材の結果を自宅の本気PCに反映させるためには、なんらかのユーティリティを使って同期する必要があった。

しかし最近はオンラインのツールも充実して生きている。Googleでは以前からオンラインのドキュメントツールを提供しているが、これを使って取材メモを取ると、そもそも同期する必要がない。これは単純に便利ということもあるが、それよりも新しい概念を実践してみるという好奇心のほうが勝る。

もう一つ、かねてからメモで便利に使っていたのが、いわゆるマインドマップである。僕はマルチプラットフォームでかつ無償という点でFreeMindを使っていたが、最近オンラインでもマインドマップを提供するサービスがあることを知った。

とりあえず今のお気に入りは、MindMiesterというサービスである。デザインもなかなかかわいいし、なによりもFreeMindのファイルがインポート、エクスポートできるのがいい。またオフラインでも使うことができるのは、小さいところだがなかなか便利だ。

ただ難点は、Macでは日本語の入力ができない。何が原因なのかわからないが、これが解決すれば満点だったのに、惜しい。

まあモバイルがWindowsマシンなら問題ないわけで、便利に使わせて貰っている。今後ドキュメントの共有は、オンラインサービス経由になるという可能性も出てきた。複数のマシンを使用する際の同期やバックアップの概念も、これらのサービスを積極的に利用することで、これから徐々に変わっていくことだろう。

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必要以上のスキル

Open OfficeやStar Suiteなど、Microsoft Office互換のソフトウェア群は無料あるいは廉価で手に入るようになった。しかしそれで爆発的にユーザーが増えたかと言えば、案外そうでもないように思う。

これはたぶん、自分だけで完結するわけにいかないからではないだろうか。最終出力がプリントアウトというなら、それでいいだろうが、今は大抵メール添付などで文章をやりとりする。そんなときに、相手側が開けないとか読めないとか言ってくるのが、めんどくさいのである。

先日はすごい経験をした。あるところから依頼を受けて原稿を寄稿したのだが、メール添付したプレーンテキストが読めないと言ってきた人がいた。

僕は最近、Macで原稿を書いている。スクリーンフォントが見やすいので、作業が楽なのだ。しかしこちらとしては、そんなに変なものを送ったつもりはない。ShiftJISでWindows改行コードのテキストである。読めないとはいっても、所詮はプレーンテキストなんだから、それなりのエディタを使うなりして漢字コードや改行コードを変換してやれば済む話だと思うのだが、そういうスキルがないらしいのだ。

いちいちそんなことを指南するのもめんどくさいので、Windowsマシンから送り直した。標準以外のものに対する退勢のなさは、加速度的に進んできている。そんな中、Open OfficeやStar Suiteを使うのは、必要以上にめんどくさいことに巻き込まれることを覚悟しなければならない。

そのうちPDFにしないと読んでもらえないようなことにならないよう、願うばかりである。

言語体系と行動原理の関係

こんばんは、蚊取り線香にやられた蚊の一種です。

「英語式語順は、自然な思考の順番に反する 研究結果」という記事を読んで、そういえばずいぶん昔に考えたんだけど結局文章にしなかった話があったのを思い出した。

それはPCのGUIにおけるファイル操作の手順である。昔のWindowsNTとかにはファイルマネージャというファイラが標準だった。もう画面も忘れちゃった人も多いと思うが、これは左右にエクスプローラみたいなものが開いていて、ファイルを移動したりするときには、右から左へ、左から右へとドラッグで操作するというものだった。

つまり、動かす主体と目的地を左右にセットしておいて、おもむろにファイルを動かす、という段取りで操作をする。ファイルを-ここに-移動、S-O-V、の順だ。以前Amigaを使っていたときも、ファイラはいろいろあったが、結局一番使いやすかったのはこのファイルマネージャータイプのものだった。ファイル操作というのは、そういうものが当たり前だと思っていた。

だからWindows95とかの時代になってエクスプローラが標準になったときに、ものすごい衝撃を受けた。これでいったいどうやってファイルを動かすのかと。このデザインからは、事前に目的地を開いておくというアフォーダンスが感じられない。なぜならば動かす前に目的地を選ぶと、動かす主体を見失ってしまう作りだからである。

したがってエクスプローラでファイル操作をすると、ファイルを-移動-目的地はセットし忘れ、ということによく陥った。これを作った人間、そしてこれをメインツールに決めた人間は、バカなのかと思ったものだ。

今にして思えばこのエクスプローラは、主格-動詞-目的語格の概念、S-V-O型の思考で作られたのではないかという気がする。いやエクスプローラ画面2つ出しときゃいいだろという意見もあるだろうが、それはこの問題の本質ではない。だからこそそれが最初から1セットになっていたファイルマネージャーは、便利だったのだから。

異なるアプリケーション間で直接ファイルをやりとりできる「ドラッグ&ドロップ方式」がGUIの基幹操作になって以降、あまりこの問題を取り上げるチャンスも無くなってきたわけだが、結局この方法は、S-O-Vの順を自力で構築しているだけにしか過ぎない。

人間の行動パターンと一致しないS-V-O型の言語も広く普及したのには、何かそちらの方が合理的なセチュエーションがあったからと考えられる。その一つは、「命令形」に変化したときのシンプルさではないか。

例えばDOSコマンドなどは先に動詞で何をするかを宣言するわけだが、この体系は指示をする側には使いやすい。そして使われる側も、最初に何をすべきか宣言されることで、系統立てた準備ができる。つまり「モードに入る」わけだ。

今の形のコンピュータがSVO言語圏で発生したのは、偶然ではなかっただろう。というよりも、SVO言語圏で発生したから、今のような形になったという方が正しいか。そう考えると、SOV言語圏でコンピュータのようなものが発生したら、もっと全然違ったものになっていただろう。

それは本当にパラダイムシフトか

ちょっと夏日が続いたものだから、調子に乗って風情を出そうと蚊取り線香などを焚いたところ、喉を痛めてしまった。そこから体調を崩して寝込む始末。最近更新してなかったのはそう言うわけなのだった。

さて、先週末から「ニコニコ大会議」ライブ配信で、本人を前に中傷と受け取れる書き込みが行なわれたことの是非に対する議論が続いているようだ。この問題に関しては、本当は僕はもっと早くから言及しておかなければならなかった。

このようなインタラクティブな試みは、5月1日に行なわれたMIAUの「青少年ネット規制法案を考える」シンポジウムで行なった事がある。ブログでもちょっとそのことを書いているし、ニコニコ動画やYouTubeでは、楠さんの講演や質疑応答の部分で、少し雰囲気がわかるかもしれない。

このような手法は、ライブとネットを接続するという点で古くから実績がある。平澤進のインタラクティブ・ライブがその先駆と言えるかもしれない。

シンポジウムの現場でも、今回の「事件」と近いようなことが起こった。質問した参加者に対して「またお前か」「話なげえ」といった書き込みであふれた。現場では仕切りをうまくやれば、案外深刻な雰囲気にはならないものだが、これがエスカレートするようならマズいな、と主催者側として感じたのは事実である。

「ニコニコ大会議」では、質問者自身が「パラダイムシフト」と受け止め(受け流し?)たことで、問題は沈静化しつつある。だがたぶんそれは、この質問者自身も語っているように、単に面白かったで割り切れるほど単純ではないように思われる。

これは先日のエントリにも絡むことだが、今後ネットの行動は「本人が見ている可能性」を排除できなくなっている。で、その際に本人が見ているということを無視してこれまでどおり落書きを続けるのか、「あ、これは普通知り合いでもない人に面と向かって言うことじゃないよね」と自重するのかの分岐点がそこに産まれた、ということである。

それは、書き込む側のリテラシに頼る部分も大きい。しかし「システムがそれを助長する」のはまずいことだし、「それを知ってて放置する」のはもっとまずいことだと思う。今まさにはてなブックマークが直面している問題と同じだ。

MIAUのシンポジウムはいつもビデオで撮影しているわけだが、質問者や参加者の顔はなるべく映らないようにカメラを配置している。それは顔が映ることで、その人にどのような影響が及ぶかわからないからである。肖像権云々を持ち出すまでもなく、これはマスメディアに携わったことがあるならば、当然身につけておかなければならないリテラシだ。

ネットでビデオが扱えるようになって久しいが、そのあたりの常識は、ネットにはない。「それがないから新しい」で本当にいいのだろうか。

先日の秋葉原連続殺人事件でも、事件直後の映像をUStream配信したことの是非が問われたことがあった。これも一つの、マスに映像を流すものに求められるリテラシの問題と言い換えることができるだろう。

僕は、「面白かった!」というポジティブな意見にスポイルされて、「顔が出るのは困ります」という人の気持ちや事情を察することができず、むしろそれを悪いことように見せてしまう今のネット世論を、恐ろしいと思う。

今回のような議論を呼んだのを契機として、ネットなりの映像リテラシを考えてもいい時期なのだろう。少し考えてみるから、これは僕の宿題とさせて欲しい。

はてブの立ち位置

先日、はてなブックマークに嫌気がさしてブログ閉じますみたいなエントリーが、はてなのホットエントリー入りするという、なんだか話がループしちゃってる事件? があった。職業ライターは別として、個人が趣味でやっているところにいろいろと書かれるのは、どうしてそんな目に遭ってまで、と思うのは仕方がない事かと思う。

もともとどんなコメントがあるかは、本人が好きで見に行かなければ見られないわけであるから、見に行かなければいいじゃないか、という話にもなるだろう。いやそれでもタイトル横の数字は増えていくわけだし、何が書かれているかは気になるものだ。それよりも書き手と読み手の緩いコミュニケーションもそこで成立するわけで、存在を無視するのも勿体ない。

そういう場合には、フィルタリングも一つの有効な手段である。いつも粘着してくるブックマーカーがイヤな場合は、はてなブックマークの「設定」から「詳細設定」を選び、「非表示ユーザー」のところに表示したくないユーザーを登録すれば、少なくとも自分はそのユーザーのコメントを読まなくて済む。

消極的な方法かもしれないが、心の健康を保つという意味では、役に立つ機能だ。そもそもブックマークのコメント機能は、書き手に読ませるためのご意見投書箱ではないが、書き手が読む確率が非常に高いメディアである。ブックマーカーもこれを使うことで、実際には何が起こっているのかを、客観的に観察するフェーズがあって良いように思う。

来なかった電子書籍の未来

ソニーとパナソニックが、事実上電子書籍ビジネスから撤退するそうである。

コンテンツと電子書籍端末も絡むビジネスなだけに、卵が先か鶏が先か的なサイクルが行き詰まったということだろう。

端末に関しては、やはり4万円というのは高すぎる。例えば「いっぺんに4万円分本を買う」という経験をした人が世の中にどれだけいるだろうか、という話にも繋がるだろう。

本というのは、ある意味小分けされているから買いやすいものであって、いきなり百科事典や文学全集を買うというのは、本を買うというのではなくもはや別の買い物である。そのへんの値頃感が合わなかった、というのがハードウェア側の問題。

米国の端末もそれぐらいするだろ、という指摘もあるだろうが、それ、アメリカ人は本も読まないバカだと思ってないか(笑)。米国人は、結構本を読む。というか、テキスト情報がものすごい数揃っている。特に専門家、プロフェッショナル向けの解説書などは、日本では考えられないぐらいの量の書籍が、安価に出ている。140年ぐらい前にタイプライターが出現して以来、欧米諸国は「文章と書類の国」になったのだ。その頃日本は明治維新で、征韓論とか廃刀令とかの時代である。

コンテンツの問題としては、記事内では取り次ぎなどの保守的な流通システムの問題も指摘されているが、やはりWEBコンテンツをダイレクトに取り込む仕掛けがなさ過ぎたことは敗因だろう。いやそれも、おそらく旧態ビジネスへの配慮をしずぎたせいではあるのだが。

僕は個人的に、ソニーのLibrieを使って、TimeBookTownで書籍をダウンロードして読んだりしていた。江戸川乱歩などの古典推理小説などは、ほとんどこれで読んだ。貸本と同じなので、金額が安いのがメリットだが、期限があるのが困った。仕事の忙しさによっては、途中で放置して期限切れになったことが何度かある。

本屋というのはマメに通うというよりも、ふらりと立ち寄って数冊まとめ買いして、それを期間を気にせずに読む、というのがサイクルのように思う。コミックスならもっと回転が速いだろうが、一般書籍はそれほど一人一人のサイクルは速くないはずだ。そのあたりの時間感覚も、なにか合わなかった感じがした。

あとはコンテンツの値段だ。本を作る立場からすれば、もっともコストがかかって、しかも圧縮できないのが「紙代」である。それがないのだから、もっと安くできて当たり前のように思えるが、買い取りコンテンツでは紙の書籍と値段が一緒というのでは、消費者は踏んだり蹴ったりだ。誰も買うはずがない。

例えば青空文庫のHTMLファイルがそのままつっこめたり、PDFの表示能力がそこそこ高かったりすれば、別の方面からの需要も期待できただろう。学生や研究者などは、論文をPDFで読まなければならないことも多い。そういう大量の文章リーダーとして、PCではなく軽量、そしてフォントが綺麗という専用端末は、需要があったはずだ。あるいは音楽家用に、楽譜リーダーとして横型にしてもいい。フットスイッチでページがめくれるようにすれば、練習も楽だろう。

米国のような流通になってないのが悪い、というのも一つの見方かもしれないが、それはすぐには動かせない。今回の失敗は、あまりにも既存の書籍ビジネスを電子的に転換することに集中・配慮しすぎたことではないかと思う。携帯書籍のようなまったく新しい流通を生み出すインフラが、ネット上に構築できなかったというのは、「ネットの自由」からはほど遠い現実として受け止めなければならない。

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